王国の分裂とマレーの植民地化
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「ジョホール王国」の記事における「王国の分裂とマレーの植民地化」の解説
「シンガポールの歴史」、「英蘭協約」、「海峡植民地」、および「オランダ領東インド」も参照 1804年、スルタン・マフムードとブギス人の副王ラジャ・アリ(マレー語版)は盟約を結んでリアウに復帰した。しかし、双方の確執は解消されることなく、まもなくスルタンはリアウを去って、さらにその南方のリンガ諸島(現インドネシア・リアウ諸島州)へ移った(「ジョホール・リアウ・リンガ」)。 1812年、マフムードが2人の息子を残して死去すると、王位継承をめぐってブギス側(副王派)とマレー側(スルタン派)が対立した。イギリスとオランダがこれに介入し、マフムードの長子フサイン(フサイン・マフムード・シャー(マレー語版))はブンダハラ(宰相)やトゥムングン(首長)らマレー人高官の支持を得たが、ブギス人は弟のラーマン(アブドゥル・ラーマン・ムアッツァム・シャー(マレー語版))を擁護した。ナポレオン戦争終結後、バタヴィアを取り戻したオランダは従来の制限貿易政策を変えず、それに対し、自由貿易政策を奉ずるイギリスはオランダに対抗するため、戦略的にも、交易の利便のうえからもマラッカ海峡の北に位置するペナン島よりも海峡の南口付近にあらたな拠点の候補地を求め、リアウ在住のブギス人副王と交渉をもち、1818年8月には、その交渉をほぼ終えていた。しかし、オランダはその年の11月に同じ副王と条約を結び、リアウに駐在官と守備隊を配置して、ラーマンをリアウ・リンガ王国の正統と認めた。 1819年、イギリス東インド会社の社員トーマス・ラッフルズは、英領インド初代総督となったウォーレン・ヘースティングズの許可を得て、ジョホールの対岸にある島シンガプラ(現在のシンガポール)に上陸し、リアウにあったマレー派の王族フサインを招き、ジョホール王として即位させた。この島の地政学的重要性に目を付けたラッフルズは、ジョホール王となったフサイン・マフムードとシンガプラの首長(トゥムングン)であるマハーラージャ・アブドゥル・ラーマンとのあいだで協定を結び、要塞と商館を建設することを合意してジョホール王フサインからこの島を買収した。以後イギリスは、この島に関税のかからない自由貿易港を建設し、東南アジア貿易の拠点とした。やがて、シンガポール島全体がイギリスの植民地になっていった。 シンガポールは「イギリス帝国」を構成する一大拠点となり、リアウに代わって新たな交易拠点として発展し始めるようになった。その際、ラッフルズが交易のパートナーとして最も期待したのが、ブギス人であった。ブギス人たちは、中国市場向けの重要な商品である燕の巣や鼈甲(べっこう)、砂金、龍脳、安息香などの海産物・林産物を東部インドネシア各地やスマトラ島・カリマンタン島などからシンガポールへ運び、そこでインド産の綿布やアヘン、ヨーロッパ産のタバコを得た。蒸気船が一般的なものとなる19世紀後半まで、東部インドネシア海域で最も活発に交易活動を担ったのはブギス人たちだったのである。 1824年、イギリスとオランダの両国は、マラッカ海峡域における互いの勢力範囲を確定させた英蘭協約をロンドンで締結し、イギリスの領有するスマトラ島西海岸のブンクルとオランダ領ムラカを交換した。これにより、イギリスはペナン-ムラカ-シンガポールをむすぶマレー半島西岸諸港市を手中に収めた。同時に、リアウ・リンガ諸島はじめスマトラ島やジャワ島はオランダの勢力圏となり、リアウ王国とジョホール王国の分離が決定的なものとなった。これにともない、リアウ・リンガ王国はスマトラ島中部と付近の島々、ジョホール王国はマレー半島南部を支配することとなったが、二王家の王国内での支配権は名目的なものにすぎず、ジョホール地方はすでにトゥムングン家の事実上の領土となっていた。マレー半島側にフサインの直轄すべき土地はすでになく、ラーマン側はリアウ・リンガ王国の体裁をかろうじて保持しているという状態であった。この協約は、見方を変えれば、英蘭両国による事実上の植民地分割にほかならなかった。そして、マラッカ王国以来、歴史的に一体的なものとして形成されてきたムラユ(マレー)世界は、現代におけるマレーシアとインドネシアの2国家による分断へと導く起点となったのである。 1826年、イギリスはシャムとのあいだにバーニー条約(英語版)を結び、ペナン島、ムラカおよびシンガポールを一括して「海峡植民地」と称する植民地を成立させ、その首都をシンガポールに置いた。マレー半島南部では、独立国としてパハンとジョホールの2王国をのこすばかりとなった。そして、イギリス勢力は、ペナン、ムラカ、シンガポールで中国向けの輸出品の生産をおこなわせようとしたが、その営みはすべて失敗し、貿易の中継基地としての機能のみがのこった。イギリス東インド会社は、それを維持するために海峡植民地をすべて自由港としたのである。 1833年にイギリス東インド会社の領有権がイギリス国王の統治権下に置かれ、さらに1858年には東インド会社の解散にともない、海峡植民地はイギリスの直轄植民地となった。海峡植民地の統治はイギリス植民地省(英語版)によって担われることとなったが、この間も、ジョホールは王国としての独立を保った。しかし、それまで東南アジア海域に参入した外来勢力に対し、むしろそれを介在させることで海域における固有の権力を構築してきた港市支配者に対し、今やその権限を厳しく制限する植民地支配が直接持ち込まれつつあったのでり、東南アジアも本格的な帝国主義時代をむかえたのである。 一方のリアウ・リンガ諸島にあっては、マレー系のスルタンやブギス系の副王が、シンガポール開港後も活発な経済活動を展開した。群島部の諸王国は海産物の生産と海賊行為が続くかぎり繁栄をつづけたのである。半面、マラッカ海峡を挟むかたちで勢力圏を定めた英蘭両国は、この海峡域で頻発する「海賊」活動に悩まされた。シンガポール開港とともに、海上民がヨーロッパ船や中国のジャンク船を襲う海賊行為はむしろ開港以前より増加したのである。ヨーロッパ人支配者が在来勢力の利得や便益を充分に満足させることができないとき、マラッカ海峡は海賊が活躍する危険な海域へと変わっていった。 これについては、オランダもイギリスもともに割り当てられる人員と財源には限界があり、海賊行為に効果的に対処することは難渋した。そこで、英蘭両国は、ジョホールのトゥムングンやリンガのマレー系スルタン、リアウのブギス人副王に報奨金を与える代わりに、海賊の取り締まり強化を依頼し、また、とくにイギリスは奴隷貿易の根絶を図った。これは、一定の成果をあげたものの、海賊行為は、蒸気船が一般化し、武装した小型巡回ボートが普及する1870年代まで活発だった。海賊活動の終息がもたらされたのは、最終的には、海賊船が蒸気船の速度に追いつけなくなってからのことであった。 1862年、トゥムングン家出身で、英主といわれたアブ・バカール(英語版)がジョホール王国のスルタンに即位した(皇帝の称号があたえられたのは1866年のことである)。マレー半島の他の州が次々と植民地化されていくなかで、アブ・バカール率いるジョホールは国家を維持し、独自の経済開発を進めて近代化の実をあげた。アブ・バカールはシンガポールの対岸にあたるマレー半島南端に港湾を建設し、1884年、その港はジョホールバルと命名された。王宮もジョホールバルに遷され、1894年には憲法を発布した。アブ・バカールはこんにち「近代ジョホールの父」と呼ばれている。 一方、港市としては衰亡したリアウは、19世紀においてもイスラーム神秘主義者の集うセンターでありつづけた。マラッカ海峡においてブギス人が活発に交易に参加しようとする限り、交易者はイスラームを奉じてマレー社会の一員となることが重視されたからであった イギリスはその後、マレー半島内部のヌグリ・スンビラン、パハン、ペラク(ペラ)、スランゴールなどスルタン領の諸国に干渉を加え、1896年にはこれら諸侯国を保護国化してクアラルンプールを首都とするマレー連合州(英語版)を組織させた。1899年より始まったジョホールの鉄道敷設交渉では、アブ・バカールの後継者スルタン・イブラヒム(マレー語版)とイギリス植民地省が対立し、このことは、イギリスがジョホールに対し攻勢を強める原因となった。マレー連合州は1909年、カリマンタン島のブルネイやマレー半島内の非連合州とともにシンガポール駐在の海峡植民地知事の管轄下に置かれてイギリス領マラヤが完成し、マレー半島北部のトルンガヌ、クランタン、クダ、プルリスの非連合州もイギリスの支配下に入った。ジョホールも非連合州であったが、ここにはイギリスの総顧問官が置かれ、王国の実権はイギリス人顧問の手にうつって、ジョホールの独立はほとんど名目的なものとなった。こうして、1909年にはイギリスによるマレー全土への支配権が確立した。 一方、ラーマンによって継承されたのちも王国の体裁を維持してきたリアウ・リンガ王国も、1911年、オランダによって廃絶された。最終的に今日のインドネシアの原型をなすオランダ領東インドが完成したのは、1910年代のことである。
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