王国の分裂とマレーの植民地化とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 王国の分裂とマレーの植民地化の意味・解説 

王国の分裂とマレーの植民地化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)

ジョホール王国」の記事における「王国の分裂とマレーの植民地化」の解説

シンガポールの歴史」、「英蘭協約」、「海峡植民地」、および「オランダ領東インド」も参照 1804年スルタン・マフムードブギス人の副王ラジャ・アリ(マレー語版)は盟約結んでリアウ復帰した。しかし、双方確執解消されることなく、まもなくスルタンリアウ去って、さらにその南方リンガ諸島(現インドネシア・リアウ諸島州)へ移った(「ジョホール・リアウ・リンガ」)。 1812年マフムード2人の息子残して死去すると、王位継承をめぐってブギス側(副王派)とマレー側(スルタン派)が対立したイギリスオランダがこれに介入しマフムード長子フサイン(フサイン・マフムード・シャー(マレー語版))はブンダハラ(宰相)やトゥムングン(首長)らマレー人高官支持得たが、ブギス人は弟のラーマン(アブドゥル・ラーマン・ムアッツァム・シャー(マレー語版))を擁護したナポレオン戦争終結後バタヴィア取り戻したオランダ従来制限貿易政策変えず、それに対し自由貿易政策奉ずるイギリスオランダに対抗するため、戦略的にも、交易利便のうえからもマラッカ海峡の北に位置するペナン島よりも海峡南口付近にあらたな拠点候補地求めリアウ在住ブギス副王交渉をもち、1818年8月には、その交渉をほぼ終えていた。しかし、オランダはその年の11月に同じ副王条約を結び、リアウ駐在官と守備隊配置してラーマンをリアウ・リンガ王国正統認めた1819年イギリス東インド会社社員トーマス・ラッフルズは、英領インド初代総督となったウォーレン・ヘースティングズ許可得てジョホール対岸にある島シンガプラ現在のシンガポール)に上陸しリアウにあったマレー派の王族フサイン招きジョホール王として即位させた。この島の地政学的重要性目を付けたラッフルズは、ジョホールとなったフサイン・マフムードとシンガプラ首長(トゥムングン)であるマハーラージャ・アブドゥル・ラーマンとのあいだで協定を結び、要塞商館建設することを合意してジョホールフサインからこの島を買収した以後イギリスは、この島に関税かからない自由貿易港建設し東南アジア貿易拠点とした。やがて、シンガポール島全体イギリスの植民地になっていった。 シンガポールは「イギリス帝国」を構成する一大拠点となり、リアウに代わって新たな交易拠点として発展し始めようになったその際ラッフルズ交易パートナーとして最も期待したのが、ブギスであったブギス人たちは、中国市場向けの重要な商品である燕の巣鼈甲べっこう)、砂金龍脳安息香などの海産物林産物東部インドネシア各地スマトラ島カリマンタン島などからシンガポール運び、そこでインド産の綿布アヘンヨーロッパ産のタバコ得た蒸気船一般的なものとなる19世紀後半まで、東部インドネシア海域で最も活発に交易活動担ったのはブギス人たちだったのである1824年イギリスオランダ両国は、マラッカ海峡域における互い勢力範囲確定させた英蘭協約ロンドン締結しイギリスの領有するスマトラ島西海岸ブンクルオランダムラカ交換した。これにより、イギリスペナン-ムラカ-シンガポールをむすぶマレー半島西岸港市手中に収めた。同時に、リアウ・リンガ諸島はじめスマトラ島ジャワ島オランダ勢力圏となり、リアウ王国ジョホール王国分離決定的なものとなったこれにともない、リアウ・リンガ王国スマトラ島中部付近の島々、ジョホール王国マレー半島南部支配することとなったが、二王家の王国内での支配権名目的なものにすぎず、ジョホール地方はすでにトゥムングン家の事実上領土となっていた。マレー半島側にフサイン直轄すべき土地はすでになく、ラーマン側はリアウ・リンガ王国体裁かろうじて保持しているという状態であった。この協約は、見方変えれば、英蘭両国による事実上植民地分割にほかならなかった。そして、マラッカ王国以来歴史的に一体的なものとして形成されてきたムラユマレー世界は、現代におけるマレーシアインドネシアの2国家による分断へと導く起点となったのである1826年イギリスシャムとのあいだにバーニー条約英語版)を結び、ペナン島ムラカおよびシンガポール一括して海峡植民地」と称する植民地成立させ、その首都シンガポール置いたマレー半島南部では、独立国としてパハンジョホールの2王国をのこすばかりとなった。そして、イギリス勢力は、ペナンムラカシンガポール中国向け輸出品生産をおこなわせようとしたが、その営みはすべて失敗し貿易中継基地としての機能のみがのこったイギリス東インド会社は、それを維持するために海峡植民地をすべて自由港としたのである1833年イギリス東インド会社領有権イギリス国王統治権下に置かれ、さらに1858年には東インド会社解散にともない海峡植民地イギリス直轄植民地となった海峡植民地統治イギリス植民地省(英語版)によって担われることとなったが、この間も、ジョホール王国としての独立保った。しかし、それまで東南アジア海域参入した外来勢力対し、むしろそれを介在させることで海域における固有の権力構築してきた港市支配者対し今やその権限厳しく制限する植民地支配直接持ち込まれつつあったのでり、東南アジアも本格的な帝国主義時代むかえたのである一方のリアウ・リンガ諸島にあってはマレー系スルタンブギス系の副王が、シンガポール開港後活発な経済活動展開した群島部の諸王国は海産物生産海賊行為が続くかぎり繁栄つづけたのである半面マラッカ海峡を挟むかたちで勢力圏定めた英蘭両国は、この海峡域で頻発する海賊活動悩まされた。シンガポール開港とともに海上民がヨーロッパ船や中国ジャンク船を襲う海賊行為はむしろ開港以前より増加したのであるヨーロッパ人支配者在来勢力利得便益充分に満足させることができないとき、マラッカ海峡海賊活躍する危険な海域へと変わっていった。 これについては、オランダイギリスもともに割り当てられる人員財源には限界があり、海賊行為効果的に対処することは難渋した。そこで、英蘭両国は、ジョホールのトゥムングンやリンガマレー系スルタンリアウブギス副王報奨金与え代わりに海賊取り締まり強化依頼しまた、とくにイギリス奴隷貿易根絶図った。これは、一定の成果をあげたものの、海賊行為は、蒸気船一般化し武装した小型巡回ボート普及する1870年代まで活発だった海賊活動終息もたらされたのは、最終的には、海賊船蒸気船速度追いつけなくなってからのことであった1862年、トゥムングン家出身で、英主といわれたアブ・バカール(英語版)がジョホール王国スルタン即位した皇帝称号あたえられたのは1866年のことである)。マレー半島他の州次々と植民地化されていくなかで、アブ・バカール率いジョホール国家維持し、独自の経済開発進めて近代化の実をあげた。アブ・バカールはシンガポール対岸にあたるマレー半島南端港湾建設し1884年、その港はジョホールバル命名された。王宮ジョホールバルに遷され、1894年には憲法発布した。アブ・バカールはこんにち近代ジョホールの父」と呼ばれている。 一方港市としては衰亡したリアウは、19世紀においてもイスラーム神秘主義者の集うセンターでありつづけたマラッカ海峡においてブギス人が活発に交易参加しようとする限り交易者イスラーム奉じてマレー社会一員となることが重視されたからであった イギリスその後マレー半島内部ヌグリ・スンビランパハンペラクペラ)、スランゴールなどスルタン領の諸国干渉加え1896年にはこれら諸侯国保護国化してクアラルンプール首都とするマレー連合州英語版)を組織させた。1899年より始まったジョホール鉄道敷設交渉では、アブ・バカールの後継者スルタン・イブラヒム(マレー語版)とイギリス植民地省が対立し、このことは、イギリスジョホール対し攻勢強め原因となったマレー連合州1909年カリマンタン島ブルネイマレー半島内の連合とともにシンガポール駐在海峡植民地知事管轄下に置かれイギリス領マラヤ完成しマレー半島北部のトルンガヌ、クランタンクダプルリスの非連合州もイギリスの支配下に入ったジョホールも非連合であったが、ここにはイギリスの総顧問官置かれ王国実権イギリス人顧問の手うつってジョホール独立はほとんど名目的なものとなった。こうして、1909年にはイギリスによるマレー全土への支配権確立した一方ラーマンによって継承されたのちも王国体裁維持してきたリアウ・リンガ王国も、1911年オランダによって廃絶された。最終的に今日インドネシア原型をなすオランダ領東インド完成したのは、1910年代のことである。

※この「王国の分裂とマレーの植民地化」の解説は、「ジョホール王国」の解説の一部です。
「王国の分裂とマレーの植民地化」を含む「ジョホール王国」の記事については、「ジョホール王国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「王国の分裂とマレーの植民地化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「王国の分裂とマレーの植民地化」の関連用語

王国の分裂とマレーの植民地化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



王国の分裂とマレーの植民地化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジョホール王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS