王国の実権掌握とマイソール・スルターン朝の樹立
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「ハイダル・アリー」の記事における「王国の実権掌握とマイソール・スルターン朝の樹立」の解説
しかし、1761年1月14日にマラーター同盟軍が第三次パーニーパトの戦いで大敗すると、マイソール王国内にいたマラーター軍は撤収した。ハイダル・アリーはこの機を逃さずに各地の軍勢を集め、歩兵6,000人と騎兵3,000人とともにバンガロールから王都シュリーランガパトナへ向けて出陣した。 同年6月、ハイダル・アリーはカンデー・ラーオを破ってシュリーランガパトナに入城し、王国の実権を完全に掌握することに成功した。これにより、彼はマイソール王クリシュナ・ラージャ2世により王国の最高位である首席大臣(サルヴァーディカーリー)に任命された。 また、ハイダル・アリーはカンデー・ラーオをバンガロールに投獄したのをはじめ、多くの反対派を一掃し、王国の全権を一手に握ることとなった。 一方、マイソール王国にイスラーム政権を樹立したことで、ハイダル・アリーは世俗君主を意味する「スルターン」の称号を名乗るようになった。この称号を名乗ることは、ムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世にも認められていた。 これにより、マイソール王国にはヒンドゥーのオデヤ朝とは別に、イスラーム政権であるマイソール・スルターン朝が成立することとなった。とはいえ、ハイダル・アリーは宗教に比較的に寛容であり、彼の統治のはじめの方の文官、軍の指揮官や兵士のほとんどはヒンドゥー教徒だった。
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