王国の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 11:15 UTC 版)
モラヴィア王国(大モラヴィア)は、870年代に急速な拡大を遂げたとされる。例えば、『メトディオスの生涯』には、「ヴィスワ川流域に住む非常に強力な異教徒の公」の地(ポーランド)に攻め込み、これを捕虜としたという記録がある。またザルツブルク大司教テオトマール1世が900年ごろに書いた書簡によれば、スヴァトプルク1世は異教徒が住み着いていたニトラ近辺を征服した。ただ現代の歴史学では、そのような広大な領域が恒常的にモラヴィアへ併合されたという主張は疑問視されている。例えば、被征服地とされるマウォポルスカ(小ポーランド)やシレジア、パンノニアといった地域には考古学的にも文献でもモラヴィアの支配を受けた証拠が見つかっていないのである。 スヴァトプルク1世の拡大政策が成功した原因は、西ヨーロッパが879年から886年にかけて大規模なヴァイキングの襲来を受けており、フランク人の王国がそちらへの対処に忙殺されていたこともあった。一方で『メトディオスの生涯』は、スヴァトプルク1世の軍事成果とメトディオスの業績を直接結びつけようとしている。例えば、メトディオスがスヴァトプルク1世に、聖ペテロの祝日を大司教(メトディオス)の教会で祝えば、彼の元へ敵を「神が直ちに連れてくる」だろうと約束した。スヴァトプルク1世が従ったところ、実際にそうなったのだ、という話が記されている。 しかしスヴァトプルク1世自身はラテン典礼を支持しており、宮廷内で力を増すメトディオスらスラヴ典礼派の排除を企てるようになった。そこで879年、スヴァトプルク1世はスラヴ式儀式の反対者として知られていた「ヴェネツィアのヨハネス」という人物をローマに派遣し、教会儀式の齟齬を解決する道を探った。一方同年に教皇はメトディオスに書簡を送った中で、彼が古代教会スラヴ語を使って布教していることを咎めている。これに対しメトディオスは、880年にモラヴィアの使節を伴ってローマを訪れた。彼の影響力により、ヨハネス8世は方針転換した。彼は勅書『インドゥストリアエ・トゥアエ』(Industriae tuae)で、ミサでは常にラテン語が用いられるよう求める反面、スラヴ語祈祷書の使用も認めた。またこの勅書では、ラスティスラフの時代に教皇が行った、大モラヴィアに大司教区を設置する決定も再確認された。スヴァトプルク1世の要請にこたえ、教皇はドイツ人聖職者Witchingをニトラ司教に昇格させたが、彼をはじめ大モラヴィアのすべての聖職者は、今だスヴァトプルク1世の王国の教会の長であるメトディオスに従うこととされた。 あなたの前任者(ヨハネス8世)は、ツヴェンティボルト公の求めに応じWichingを司教に任じました。しかし、彼(ヨハネス8世)は彼(Wiching)を古代からの歴史あるパッサウ司教区ではなく、公に打ち負かされ異教からキリスト教へ改宗し、新たに洗礼を受けた者たちのもとへ差し向けられたのです。 —ザルツブルク大司教テオトマールとその属司教より、教皇ヨハネス9世への書簡
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