王国の混乱と首都の占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/20 10:00 UTC 版)
「タンジャーヴール・マラーター王国」の記事における「王国の混乱と首都の占拠」の解説
1736年、トゥッコージーが死亡し、その息子ヴィヤンコージー2世が王位を継承すると、王国の政権は権臣のサイイドに握られた。 1738年、サイイドはヴィヤンコージー2世の妃であり女王スージャナ・バーイー を廃し、サラボージーの息子シャーフージー2世を王とした。 さて、マドゥライ・ナーヤカ朝がカルナータカ太守に滅ぼされたのち、タンジャーヴール・マラーター王国への攻撃は激しさを増すようになっていった。シャーフージー2世はそのため、ナーガパッティナムのオランダ東インド会社やセント・デーヴィッド要塞のイギリス東インド会社に接近して助力を求めたが、失敗に終わった。 1739年、これがカルナータカ太守の娘婿チャンダー・サーヒブの知る所となり、タンジャーヴールは侵攻された。シャーフージー2世はマラーター王国に救援の手紙書いたが間に合わず、首都タンジャーヴールは落とされ、彼は廃位された。
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