王国の範囲と拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 03:15 UTC 版)
カニシカが王位を得た後に根拠地としたのは北西インドであった。彼は北西インドの都市プルシャプラ(現在のペシャーワル)を首都とした。カニシカは一族郎党を引き連れ、夏はアフガニスタンの草原へ、冬はインドの平原へ移動した。地方の有力者を従属させ、「王の中の大王」として君臨した。東部領支配のため、今日のデリー近くのマトゥラーを副都とした。マトゥラー近郊のマート遺跡から出土したカニシカの立像は、中央アジア風の外套をまとい、ズボンをはき、フェルト製の長靴を履く。外套裾には「大王、王中の王、天子、カニシカ」の銘文がある。 カニシカはガンジス川を下って遠くインド東部地方にまで勢力を拡張することを目指した。ネパールのカトマンズやガンジス川中流のサールナートを支配下にいれ、パータリプトラ近辺にまで迫った。さらにカニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これが征服の痕跡であるのかどうかは不明である。 一方で仏典の記録には、カニシカはパルティアと戦って大勝利を収めたとする記録がある。それによれば、当時のパルティア王は甚だしく凶暴であり、クシャーナ朝の領土を侵略したのでカニシカ王はこれを迎え撃って勝利し、パルティア人を9億人殺したという。この数値は明らかに誇張であり、またパルティアとクシャーナ朝は国境を接していたことから当然紛争があったとは考えられるが、カニシカの対パルティア戦の実態はよくわかっていない。 カニシカの時代にはクシャーナ朝はガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となっていたが、彼の治世の後半以降、クシャーナ朝に関する記録は乏しくなり、その歴史の詳細は分からなくなってしまう。 カニシカの後、おそらく息子であるヴァーシシカが王位を継いだ。
※この「王国の範囲と拡張」の解説は、「カニシカ1世」の解説の一部です。
「王国の範囲と拡張」を含む「カニシカ1世」の記事については、「カニシカ1世」の概要を参照ください。
- 王国の範囲と拡張のページへのリンク