王国の版図拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:36 UTC 版)
1720年4月12日、バーラージーが死亡し、息子のバージー・ラーオが宰相位を継いだ。その世襲はマラーター王シャーフーに認められたものであり、宰相位は以後この家系が独占することとなった。 1724年、ムガル帝国の宰相ミール・カマルッディーン・ハーンがデカンで独立し、ニザーム王国を樹立すると、マラーター王国との対立が始まった。というのも、ニザーム王国もデカン6州に対する権利を帝国から与えられていたからであった。 1727年、バージー・ラーオは南インドのカルナータカ地方に遠征を行い、3月にマイソール王国の首都シュリーランガパトナを包囲した。そのさなか、ニザーム王国がバージー・ラーオと敵対するマラーター諸将とともにマラーター王国に攻め入り、バージー・ラーオはすぐさま引き返した。 1728年2月、マラーター王国はニザーム王国の軍にプネー及びその周辺の地域を占領され、シャーフーはプランダル城へ避難を余儀なくされたが、遠征から戻ってきたバージー・ラーオはそれを破った(パールケードの戦い)。同年3月6日、マラーターはニザームにデカンにおけるチャウタとサルデーシュムキーを認めさせた。 ニザーム王国との戦いののち、バージー・ラーオはムガル帝国の領土に対して長期の遠征を行い、その軍勢はマールワー、グジャラート、ブンデールカンドを席巻した。そして、1737年3月にはデリーでムガル帝国軍を打ち破り(デリーの戦い)、同年12月にはボーパールでその援軍たる諸国の軍勢を破った(ボーパールの戦い)。 こうして、バージー・ラーオの宰相在任期間、マラーター王国は広大な版図を領するようになりその一方で随行した武将であるマラーター諸侯(サルダール)に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった。これにより、北インドにはシンディア家、マールワーにはホールカル家、グジャラートにはガーイクワード家がそれぞれ統治を許された。のちにこの統治形態を見たイギリス人は、これをマラーター同盟と呼び、その呼び名が定着した。 とはいえ、バージー・ラーオは治世20年のあいだに、マラーター王権(ボーンスレー家)を名目化し、王国宰相が事実上の「王」となり、王国宰相が同盟の盟主を兼ねる「マラーター同盟」を確立させることに成功している。また、1731年から1732年にかけて、バージー・ラーオはプネーに巨大な宰相の宮殿であるシャニワール・ワーダーを建設し、プネーに独自の勢力基盤を持った。
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