パールケードの戦いとは? わかりやすく解説

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パールケードの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/10/31 08:20 UTC 版)

パールケードの戦い
1728年2月28日
場所 インドナーシク近郊パールケード
結果 マラーター王国の勝利
衝突した勢力
マラーター王国 ニザーム王国
指揮官
バージー・ラーオ カマルッディーン・ハーン
戦力
不明 不明

パールケードの戦い(パールケードのたたかい、マラーティー語:पालखेडची लढाई, 英語:Battle of Palkhed) は、1728年2月28日インドナーシク近郊パールケードにおいて、マラーター王国ニザーム王国との間で行われた戦い。

戦闘に至る経緯

1724年ムガル帝国の宰相カマルッディーン・ハーンが独立し、デカン地方ニザーム王国を樹立すると、翌年に彼は帝国からデカン6州の権利を認められた。

ところが、1718年7月マラーター王国はムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタおよびサルデーシュムキーを帝国に認められていたため、ニザーム王国との対立が始まった[1]

1727年初頭、マラーター王国宰相バージー・ラーオ南インドカルナータカ地方に遠征中、ニザーム王国が彼に敵対するマラーターの武将らとともに攻め込んできた[1]。同年4月にバージー・ラーオもカルナータカ遠征を終え[2]、ニザーム王国の軍と対峙するために本国へと戻った。

戦闘とその後の経過

1728年2月、ニザーム王国の軍にプネー及びその周辺の地域を占領され、マラーター王シャーフーはプランダル城へと逃げた[1][2]。それと同時にバージー・ラーオはカルナータカ地方遠征から帰還し、ニザームの軍を迎撃した。

かくして、同月28日マラーター軍とニザーム軍はナーシク近郊の村パールケードで激突した。戦いはマラーター軍の勝利に終わり、ニザームの軍勢はこれに屈服した。 この勝利により、バージー・ラーオは対立するマラーター諸将を排することに成功し、王国の実権を掌握した[3]

同年3月6日、マラーター王国とニザーム王国との間に講和が結ばれた[3]。これにより、マラーターはデカンにおけるチャウタとサルデーシュムキーをニザームに認めさせた[3]

次にマラーターとニザームが激突するのは約10年後の1737年12月ボーパールの戦いである。

脚注

  1. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.214
  2. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.38
  3. ^ a b c Maratha Chronicles Peshwas (Part 2) Glory of the Peshwas

参考文献

  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 
  • 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年 

関連項目




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