王権の有名無実化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 21:25 UTC 版)
1720年4月、バーラージー・ヴィシュヴァナートが没し、シャーフーはその息子バージー・ラーオを新たな宰相に任命した。これ以降、マラーター王国の宰相位はこの家系に世襲されるようになった。 1724年、ムガル帝国から宰相カマルッディーン・ハーンが独立し、ニザーム王国が建国されると、まもなくマラーター王国との対立が始まった。なぜなら、ニザーム王国が支配を認められたデカン6州はすでにマラーター王国にチャウタとサルデーシュムキーが認められていたからである。宰相に就任したばかりのバージー・ラーオの権力は不安定で、彼と対立するマラーター諸将はニザーム王国と組んだ。 1727年初頭、バージー・ラーオが南インドのカルナータカ地方に遠征中、ニザーム王国が彼に敵対するマラーターの武将らとともに攻め込んできた。同年4月にバージー・ラーオもカルナータカ遠征を終え、ニザーム王国の軍と対峙するために本国へと戻った。 1728年2月、ニザーム王国の軍はプネー及びその周辺の地域を占領し、シャーフーはプランダル城へと逃げざるを得なくなった。それと同時にバージー・ラーオはカルナータカ地方遠征から帰還し、ニザームの軍を迎撃し、同月28日にパールケードの戦いで破った。 この戦勝により、バージー・ラーオは敵対するマラーター王国の武将らを排除し、王国の実権を掌握することに成功した。また、3月6日にマラーター王国とニザーム王国との間に講和が結ばれた、マラーターはデカンにおけるチャウタとサルデーシュムキーをニザームに認めさせた。 バージー・ラーオはその後、マールワーやグジャラート、さらには遠くデリーにまで遠征し、1730年後半までマラーター王国の版図を帝国と呼べる広大なものとした。また、彼は随行した武将であるマラーター諸侯(サルダール)に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった。 バージー・ラーオは20年のあいだにマラーター王権(ボーンスレー家)を名目化し、王国宰相が事実上の「王」となり、王国宰相が同盟の盟主を兼ねる「マラーター同盟」を確立させることに成功している。これにより、マラーター王たるシャーフーの王権は有名無実化した。 1740年4月、宰相バージー・ラーオが遠征中にナルマダー川河畔で亡くなった。その際、シャーフーは彼の息子バーラージー・バージー・ラーオの世襲を認めた。 とはいえ、シャーフーは全く無力というわけではなかった。1740年代、宰相バーラージー・バージー・ラーオがナーグプルの諸侯ラグージー・ボーンスレーとベンガル領有でもめた際、その間に入って調停し、1743年8月にラグージーの勢力範囲であるとの裁定を下した。この点から見ると、シャーフーは宰相を基本的に支持したが、必ずしもすべてにおいて肩入れすることはなかったようだ。
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