王権の強化、財政改革
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「ポルトガルの歴史」の記事における「王権の強化、財政改革」の解説
これまでポルトガル経済を支えていたブラジルの砂糖生産は1670年代から衰退し、また富裕層によるイギリスの毛織物、フランス、イタリアの贅沢品の輸入量の増加によってポルトガルの経済状況は悪化する。1675年に財政長官のエリセイラ伯はフランスのコルベールの重商主義政策に倣った財政改革を実施し、フランスやイギリスの熟練工の招聘、繊維工場の開設・拡張をおこなうとともに国産品保護のため輸入品の使用を禁止する法令を発布した。しかし、カダヴァル公爵やアレグレッテ侯爵などのイギリスへのワインの輸出を求める勢力はイギリス製品の締め出しを望まず、ブラジルからの金の流入量が増加すると、工業化への熱意は失われていく。そして金の流入によって貿易赤字が解消された後、人々は粗悪な国産品ではなく法律を犯して輸入品を買い求めるようになった。1690年にエリセイラ伯は自殺し、ポルトガル経済が不況から脱すると工業化は頓挫する。 ジョアン5世はブラジルの金によって得た経済力を元にこれまで国政に深く関わってきた大貴族を排除し、絶対王政の確立を志向した。金は王室に多大な収入をもたらしたためにコルテスを招集する必要性は薄れ、ポルトガル革命後の1822年まで開催されない状況が続くことになる。しかし、貴族、聖職者、都市、異端審問所が持つ伝統的な特権と習慣に介入することはできず、国王が行使できる権力には制約がかけられていた。ジョアン5世は国家の威信の回復を図って対外戦争に参戦し、スペイン継承戦争ではオーストリア、イギリス、オランダに与し、1713年のユトレヒト条約でラプラタ川北岸のサクラメントを獲得する。1750年にスペインとの間で締結されたマドリード条約で、ポルトガルはサクラメントの割譲と引き換えにトルデシリャス条約で取り決められた境界線を越えて西に広がっていた土地の領有権を認めさせ、ブラジルの境界線がほぼ確定する。1717年には教皇庁の要請に応じて対トルコ戦争に参加し、マタパン岬沖の海戦でポルトガル艦隊は勝利を収めた。戦争での活躍、寄進によってリスボン大司教は教皇庁から総大司教区と枢機卿の称号を付与され、多額の資金を投入して総大司教座教会が建立される。スペイン継承戦争後、ポルトガルはヨーロッパ諸国の係争に対して積極的に関与せず中立的な立場をとり、50年近い安定を享受することができた。 16世紀半ばからポルトガルの学芸は国家と教会の監視によって衰退し、また連合王国の成立に伴う宮廷の消滅もあって、ポルトガルの文化の発展は停滞していた。こうした状況下でブラジルから流入した金は建築の分野に華美なバロック様式をもたらし、金泥木彫(ターリャ・ドラーダ)と絵タイル(アズレージョ)によって飾られた建築物が現れた。 ジョアン5世の死後に即位したジョゼ1世は啓蒙主義者のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(ポンバル侯)を起用し、「上からの近代化」を推進する。1755年11月1日にポルトガル南西部で大地震が発生し、震源地に近いリスボンは多大な被害を受け、建築物、美術品、書籍などが失われる(リスボン地震 (1755年))。震災の事後処理に活躍したポンバル侯はリスボン市街地の再建を進め、ジョゼ1世からの信頼を勝ち取った。 1758年の国王暗殺未遂事件の後に貴族勢力は弾圧され、翌1759年にポルトガル、ブラジルの両方で強い影響力を持っていたイエズス会士が追放される。イエズス会同様に強権を有していた異端審問所も1774年までに国家の統制下に置かれ、火刑が廃止される。イエズス会士の追放を契機にジョアン5世の治世からの課題となっていた教育改革が実施され、イエズス会によって運営されていたエヴォラ大学は閉鎖され、1772年にはコインブラ大学のカリキュラムと組織が2世紀半ぶりに再編された。初等・中等教育には学制が導入され、自国語の教育を強化した結果中間層の識字率が向上する。身分の平準化も進展し、1760年にはポルトガル本国の奴隷制が廃止され、1773年には異端審問所によって設けられていた新キリスト教徒と旧キリスト教徒の区別が廃止される。 1777年にジョゼ1世が没した後ポンバル侯は失脚するが、彼が取った重商主義政策は継承された。ポンバル侯によって育成されたポルトガルのマニュファクチュアは成長し、アメリカ独立戦争とフランス革命の影響を受けてブラジルからの輸出品の価格は高騰し、1807年のフランス軍の侵入までポルトガルの好況は続いた。しかし、ブラジルではマニュファクチュアが廃止されたために現地の繊維産業と製鉄業は打撃を受け、1780年代から金の産出量が減少したために失業者が増加し、社会の緊張は高まっていた。ブラジルのポルトガル本国からの搾取に対する不満が高まり、1789年のミナスの陰謀、1798年のバイーアの陰謀といった本国からの独立を図る反乱が企てられた。その一方でポルトガル宮廷にはスペインからの脅威を避けるため、恵まれた富を有するブラジルへの遷都を提案する意見があり、ブラジルの支配者層も利権を維持しつつ、植民地条例からの脱却を求める最良の方法として宮廷の移転を望んでいた。
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