対トルコ戦争
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1580年代にはトルコ戦争が激化し、戦費が逼迫したことから、皇帝ルドルフ2世は帝国等族に使節を派遣し、個別に資金調達を試みた。ザクセン選帝侯は、この援助要請をオーバーザクセン・クライスのクライス会議にかけた。また、ニーダーザクセン・クライスもクライス会議で戦費の提供に応じることとした。この頃、皇帝の側近であったヒュルゼンやザルツブルク大司教ディートリヒは、それぞれ異なる見地からではあったが、対外戦争に対し、帝国クライス会議を利用することを提言したが、いずれも実現はしなかった。 しかし、決定に時間がかかる帝国議会を避け、諸問題を帝国代表者会議や帝国クライス会議に移管する動きが現実にあり、同時に帝国クライスが対外戦争にも関与すべきだという風潮は確実に熟成されつつあった。1594年の帝国会議で、帝国議会では対トルコ戦争援助問題のみを議題とし、これ以外の議論を帝国代表者会議に移管することが決した。また、この帝国議会で決した対トルコ戦援助の一部について各クライスに提供要請がなされたが、対外戦争は管轄外とした帝国執行令を根拠に異を唱えた者はなく、バイエルン、フランケン、シュヴァーベン・クライスは合同会議を開催し、実際の援助提供を決議している。 1598年にはこれにニーダーザクセン、オーバーザクセンを加えた5クライスで合同会議を開き、危機的状況になった場合にはという条件付きでさらなる予備軍の派遣を決した。その上で、実際に派遣する際には帝国執行令に沿って、対トルコ戦争援助問題を協議することを取り決めた。ついに、対外戦争についても、その法的根拠の整備を行う方針が言明されたのである。
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対トルコ戦争
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「トルコ軍によるシリア侵攻 (シリア内戦)」も参照 2018年1月20日、トルコ軍はテロ集団と見なしているシリアのクルド人組織「クルド民主統一党(PYD)」の影響下にある「クルド人民防衛部隊(YPG)」をシリア北西部アフリーン(Afrin)から排除する「オリーブの枝」作戦を開始。シリア反体制派武装組織を支援する形で地上部隊を投入し、空爆と地上部隊による攻撃を開始。これに対しYPGはアサド政権に軍事支援を要請、2月20日に民兵主体の政府軍部隊がアフリーン入りした。3月18日、トルコ軍と反体制派がアフリーンを制圧し同市街を全面掌握。12月28日、トルコがシリアのクルド人支配地域での軍事作戦の準備を進めるに先立ち、YPGの要請によりアサド政権が政府軍部隊をマンビジに投入。 「トルコ軍によるシリア侵攻 (2019年)」も参照 2019年10月9日、トルコ軍と自由シリア軍はシリア領内に侵攻。クルド人民防衛隊を含めたクルド人勢力に攻撃を開始した。クルド人勢力は、ロシアを仲介役としてシリア政府軍に協力を要請しながら、トルコ軍と対抗することとなった。10月17日には、アメリカの仲介による5日間の停戦に合意したが、国境線付近からの撤収を余儀なくされた。
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