対デンマーク戦争とマントイフェルとの対立
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「アルブレヒト・フォン・ローン」の記事における「対デンマーク戦争とマントイフェルとの対立」の解説
小ドイツ主義統一のための最初の戦争が1864年のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題をめぐる対デンマーク戦争だった。デンマーク軍が立てこもるデュッペル要塞をめぐって参謀総長モルトケが犠牲が出過ぎるとして攻撃に反対したのに対して、ローンは、ビスマルクやマントイフェルとともに要塞攻撃を主張した。ローンとビスマルクはこの要塞を落とすことで話題性を作り、国内の憲法闘争を有利にしようと目論んでいた(一方マントイフェルは軍事クーデタヘ繋げようという意図だった)。 デュッペル要塞が陥落するとマントイフェルは「今や国内のデュッペル要塞が問題」と称して衆議院に対するクーデタを主張し始めた。また対デンマーク戦争勝利後、ビスマルクが小ドイツ主義統一の次なる標的としてオーストリア帝国への敵視政策をとるようになったことに反対し、オーストリアと反革命の連帯を結ぶことを主張した。加えて宰相と陸相の接近を国王の統帥権を弱めるものと看做して警戒し、ローンとビスマルクに対する対決姿勢を強めていった。 ローンとビスマルクは1865年5月ヴィルヘルム1世を説得してマントイフェルをシュレースヴィヒ総督に任じさせて中央から追放した。
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