対トルコ遠征計画とは? わかりやすく解説

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対トルコ遠征計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 13:55 UTC 版)

アンドレアス・パレオロゴス」の記事における「対トルコ遠征計画」の解説

アンドレアスは父ソマス同様、遠征隊を組織してコンスタンティノープル奪還しビザンツ帝国復興する野望抱いていた。ロシアから帰還し間もなく1481年夏にアンドレアスは対トルコ遠征計画し始めた。彼はギリシア渡海する道筋見定めるため南イタリア旅し10月には数人腹心をつれてフォッジャに行、ナポリ王フェルディナンド1世から金銭支援受けた。そして10月から11月にかけてフェルディナンド1世付き従いブリンディシで過ごすなどしたが結局遠征実行移されることはなかった。 1481年という年は、アンドレアスにとっては遠征実施する絶好機であった1480年8月オスマン帝国ロドス島攻略失敗して多大な損害被り、翌1481年5月3日にはコンスタンティノープル征服者メフメト2世死去息子ジェムバヤズィト2世)の間でスルターンの位をめぐる内乱勃発していた。アンドレアスは、当時オスマン帝国の攻撃さらされていたフェルディナンド1世動かしオスマン帝国内乱介入してもらおうとした。しかし10月までにはバヤズィト2世地位確立してオスマン帝国混乱収まってしまい、主要な西欧キリスト教諸国遠征非協力的であった。さらに致命的な問題として、アンドレアス活動まずもって資金不足過ぎた同時代のジェラルディ・ダ・ヴォルテッラの記述をもとに後の歴史家たちが主張するところによれば、シクストゥス4世1481年9月遠征資金として300ドゥカート支給しているものの、これはむしろ単なる南イタリア旅費過ぎずアンドレアス従者たち経費考えるとギリシアへの遠征に使うにはあまりにも少額であった遠征立ち消えになったもう一つ理由として、ヴェネツィア共和国アンドレアスへの援助消極的だったことがあげられるアンドレアス小規模な軍勢集めたとしても、ヴェネツィア海洋での支援なければアドリア海を渡ることもできなかった。しかしすでにヴェネツィアのシニョーリアはオスマン帝国条約結んでおり、あえてオスマン帝国と争う気はなかった。アンドレアスは他にも少なくとも1回1485年ヴェネツィアモネンバシア奪取企てる計画にかかわる形でモレアス奪還試みている。

※この「対トルコ遠征計画」の解説は、「アンドレアス・パレオロゴス」の解説の一部です。
「対トルコ遠征計画」を含む「アンドレアス・パレオロゴス」の記事については、「アンドレアス・パレオロゴス」の概要を参照ください。

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