対デンマーク戦争とは? わかりやすく解説

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対デンマーク戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:33 UTC 版)

ハンザ同盟」の記事における「対デンマーク戦争」の解説

デンマークハンザ同盟宿敵であったデンマークホルシュタイン通じて陸路貿易行っており、海上貿易中心ハンザ商人進出できずにいた。また、海上貿易ハンザ商人頼らず行っていた。さらに、地理的にハンザ中心地近く軍事的な脅威でもあった。 14世紀デンマーク王国ヴァルデマー4世再興王は王権強大化とデンマーク領の拡大邁進していた。1360年にはスウェーデン南部1361年にはハンザ同盟都市ヴィスビュー占領したヴィスビューハンザ同盟にとって重要な拠点であり、そこが奪われるということは死活問題であった。そのためハンザ同盟都市デンマークに対して開戦する1362年)。デンマーク積極的な膨張策に脅威抱いていたノルウェー王国スウェーデン王国シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン伯国ドイツ騎士団などもハンザ同盟味方した。 しかし開戦直後リューベック市長ヨハン・ヴィッテンボルク率いハンザ都市連合艦隊デンマーク海軍敗北喫する1367年ケルンデンマークとの戦争議題据えたハンザ会議が行われた。これにはハンザ都市だけでなくアムステルダムも代表を派遣しており、同市を含むネーデルランド都市デンマークに対して抱いた強い危機感窺える。この会議で、ヴェンドプロイセンネーデルランドの諸都市の間で反デンマークケルン同盟締結された。また、この同盟ハンザ同盟異なり加盟都市義務課している(同盟当事者ではないがリーフラントの諸都市にも軍事的援助義務課せられた)。義務違反した都市同盟から追放されることが明記された。各都市同盟義務履行するために市民に税を課したスウェーデン国王加盟予定されていた。また、この条約リューベックハンザ首長であることが初め明示された。 ケルン同盟によって結束力固めたハンザ側は1368年リューベック市長ブルーノ・バーレンドルプを司令官として海上から国王不在コペンハーゲン攻略する。さらにオランダネーデルランド都市艦隊は、デンマーク側に寝返ったノルウェー当時首都ベルゲン襲撃した当時北ドイツにいたヴァルデマー4世 (デンマーク王)ハンザ同盟停戦呼びかけた。 1370年シュトラルズントの和議締結された。停戦会議においてハンザ同盟1つ交渉団体「諸都市」としてデンマーク代表との交渉あたったハンザ代表は領土要求行わず戦前権利承認戦費賠償税金取り立てるための要塞15年保障占領し、その間税収2/3受領する)が認められた。また、義務履行確実にするため、次期デンマーク国王即位にはハンザ承認が必要とされた。 この戦争ハンザ同盟にとってそれまで権利国際的に承認されたことを意味した一方で1870年条約締結から500年後、翌1871年ドイツ諸邦統一されドイツ帝国成立以降ドイツでは、「ドイツ民族勝利」「民族的栄光担い手として北方に覇を唱えた」とみなされた。

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対デンマーク戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)

ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「対デンマーク戦争」の解説

北ドイツシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国、ラウエンブルク公国三公国はデンマーク王同君連合統治していたが、住民大多数ドイツ系であるためデンマークからの独立運動発生していた。デンマーク側も第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争時に結ばれたロンドン議定書違反してシュレースヴィヒ公国併合企図していた。1863年11月クリスチャン9世がデンマーク王即位すると、これを認めないアウグステンブルク公フリードリヒ三公国の継承求めて蜂起し三公国やドイツ諸邦ドイツ・ナショナリズム支持獲得する至った。 高まるドイツ・ナショナリズム背景王妃アウグスタフリードリヒ皇太子夫妻、シュライニッツ宮内大臣ゴルツ、ベルンシュトルフなど宮廷自由主義派活動が再び盛んになった。彼らはアウグステンブルク公支持して中小邦国運動の先頭に立つことでドイツ連邦内におけるプロイセン覇権確固たるものとすべきと主張していた。ヴィルヘルムもそれに影響受けた。またアウグステンブルク公プロイセン軍将校であった事もヴィルヘルム彼に好感寄せ要素だった。 一方ビスマルクアウグステンブルク公独立公国認めれば反プロイセン自由主義邦国一つ増えることになるだろうと考えていたので、この地をプロイセン併合したがっていた。しかしそれは国際的に国内的に支持得られないのは明らかだったので、さしあたってデンマークロンドン議定書守らせる(=シュレースヴィヒ公国独立維持したうえでデンマーク王同君連合状態)という立場取った。この問題ヴィルヘルム1世政治路線をはっきり示した珍しいケースであったが、結局ビスマルクに「列強対立しいためにロンドン議定書を守らねばならない」と説得された。 ロンドン議定書署名国である普墺両国デンマークロンドン議定書守らせるべく、1864年2月より第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争開始したヴィルヘルムは自らが軍制改革育て上げたプロイセン軍がデュッペル防塁攻略アルゼン上陸戦果をあげたことを大い喜んだ戦争同年8月までに普墺連合軍の勝利終わった戦争の経緯の中でロンドン議定書いつの間に破棄され三公国は普墺両国共同統治されることになった1865年8月には普墺両国の間でガスタイン条約締結されシュレースヴィヒプロイセンホルシュタインオーストリア管理し、またラウエンブルクのオーストリア権利プロイセン売却されることになった。このラウエンブルク獲得功績1865年9月15日ヴィルヘルムビスマルク伯爵位を与えている。

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