対デンマーク戦争
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デンマークはハンザ同盟の宿敵であった。デンマークはホルシュタインを通じて陸路で貿易を行っており、海上貿易が中心のハンザ商人に進出できずにいた。また、海上貿易もハンザ商人に頼らず行っていた。さらに、地理的にハンザの中心地に近く、軍事的な脅威でもあった。 14世紀、デンマーク王国のヴァルデマー4世再興王は王権の強大化とデンマーク領の拡大に邁進していた。1360年にはスウェーデン南部、1361年にはハンザ同盟都市のヴィスビューを占領した。ヴィスビューはハンザ同盟にとって重要な拠点であり、そこが奪われるということは死活問題であった。そのためハンザ同盟都市はデンマークに対して開戦する(1362年)。デンマークの積極的な膨張策に脅威を抱いていたノルウェー王国、スウェーデン王国、シュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン伯国、ドイツ騎士団などもハンザ同盟に味方した。 しかし開戦直後、リューベック市長ヨハン・ヴィッテンボルク率いるハンザ都市連合艦隊はデンマーク海軍に敗北を喫する。1367年、ケルンでデンマークとの戦争を議題に据えたハンザ会議が行われた。これにはハンザ都市だけでなくアムステルダムも代表を派遣しており、同市を含むネーデルランド諸都市がデンマークに対して抱いた強い危機感が窺える。この会議で、ヴェンド、プロイセン、ネーデルランドの諸都市の間で反デンマークのケルン同盟が締結された。また、この同盟はハンザ同盟と異なり、加盟都市に義務を課している(同盟当事者ではないがリーフラントの諸都市にも軍事的援助義務が課せられた)。義務に違反した都市は同盟から追放されることが明記された。各都市は同盟の義務を履行するために市民に税を課した。スウェーデン国王加盟も予定されていた。また、この条約でリューベックがハンザの首長であることが初めて明示された。 ケルン同盟によって結束力を固めたハンザ側は1368年、リューベック市長ブルーノ・バーレンドルプを司令官として、海上から国王不在のコペンハーゲンを攻略する。さらにオランダ(ネーデルランド)都市の艦隊は、デンマーク側に寝返ったノルウェーの当時の首都ベルゲンも襲撃した。当時、北ドイツにいたヴァルデマー4世 (デンマーク王)はハンザ同盟に停戦を呼びかけた。 1370年、シュトラルズントの和議が締結された。停戦会議においてハンザ同盟は1つの交渉団体「諸都市」としてデンマーク代表との交渉にあたった。ハンザ代表は領土要求を行わず、戦前の権利承認と戦費賠償(税金を取り立てるための要塞を15年間保障占領し、その間の税収の2/3を受領する)が認められた。また、義務の履行を確実にするため、次期デンマーク国王の即位にはハンザの承認が必要とされた。 この戦争はハンザ同盟にとってそれまでの権利が国際的に承認されたことを意味した。一方で1870年(条約締結から500年後、翌1871年にドイツ諸邦が統一されドイツ帝国が成立)以降のドイツでは、「ドイツ民族の勝利」「民族的栄光の担い手として北方に覇を唱えた」とみなされた。
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対デンマーク戦争
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「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「対デンマーク戦争」の解説
北ドイツのシュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン公国、ラウエンブルク公国の三公国はデンマーク王が同君連合で統治していたが、住民の大多数がドイツ系であるためデンマークからの独立運動が発生していた。デンマーク側も第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の時に結ばれたロンドン議定書に違反してシュレースヴィヒ公国の併合を企図していた。1863年11月にクリスチャン9世がデンマーク王に即位すると、これを認めないアウグステンブルク公フリードリヒが三公国の継承権を求めて蜂起し、三公国やドイツ諸邦のドイツ・ナショナリズムの支持を獲得するに至った。 高まるドイツ・ナショナリズムを背景に王妃アウグスタ、フリードリヒ皇太子夫妻、シュライニッツ宮内大臣、ゴルツ、ベルンシュトルフなど宮廷自由主義派の活動が再び盛んになった。彼らはアウグステンブルク公を支持して中小邦国の運動の先頭に立つことでドイツ連邦内におけるプロイセンの覇権を確固たるものとすべきと主張していた。ヴィルヘルムもそれに影響を受けた。またアウグステンブルク公がプロイセン軍将校であった事もヴィルヘルムが彼に好感を寄せる要素だった。 一方ビスマルクはアウグステンブルク公の独立公国を認めれば反プロイセン的自由主義邦国が一つ増えることになるだろうと考えていたので、この地をプロイセンに併合したがっていた。しかしそれは国際的にも国内的にも支持を得られないのは明らかだったので、さしあたってデンマークにロンドン議定書を守らせる(=シュレースヴィヒ公国の独立を維持したうえでデンマーク王の同君連合状態)という立場を取った。この問題はヴィルヘルム1世が政治路線をはっきり示した珍しいケースであったが、結局ビスマルクに「列強と対立しないためにはロンドン議定書を守らねばならない」と説得された。 ロンドン議定書の署名国である普墺両国はデンマークにロンドン議定書を守らせるべく、1864年2月より第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した。ヴィルヘルムは自らが軍制改革で育て上げたプロイセン軍がデュッペル防塁攻略とアルゼン島上陸に戦果をあげたことを大いに喜んだ。 戦争は同年8月までに普墺連合軍の勝利に終わった。戦争の経緯の中でロンドン議定書はいつの間にか破棄され、三公国は普墺両国が共同で統治されることになった。1865年8月には普墺両国の間でガスタイン条約が締結され、シュレースヴィヒをプロイセン、ホルシュタインをオーストリアが管理し、またラウエンブルクのオーストリアの権利はプロイセンに売却されることになった。このラウエンブルク獲得の功績で1865年9月15日にヴィルヘルムはビスマルクに伯爵位を与えている。
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