戦争の経緯
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「第一次キューバ独立戦争」の記事における「戦争の経緯」の解説
10月10日に砂糖工場所有者のカルロス・マヌエル・デ・セスペデスは37人の同志と共に行動を開始した。まず自分の工場の奴隷を解放して147人の反乱軍を組織した。ヤラを制圧したセスペデスはスペインからの独立と奴隷の解放を宣言した。この動きは数日間でほとんど鎮圧されたが、バヤモに急行して反乱軍の拠点を確保する事に成功した。オリエンテ州の様々な地域で支持を得て、独立運動はキューバの東部地域全体に広がり続けた。10月の終わりまでに、暴動参加者は約12,000人にまで増加していた。 その同じ月に優れた軍事的才能を持ち、かつてドミニカ共和国のスペインからの独立戦争を戦ったマクシモ・ゴメスが農民を山刀(マチェテ)で武装させて待ち伏せて接近戦を挑むという作戦を考案した。スペイン軍兵士はキューバ軍兵士と違い、子供の頃に黄熱病の免疫を獲得していなかったので、大きな損失を受けた。1870年6月にはゴメスはオリエンテ地区の司令官に就任した。 反乱軍の拠点となったバヤモは3ヶ月後の1869年1月12日にはスペイン軍が奪還したが、市民によって市内は焼き払われていた。東部の蜂起に続き、2月頃には中部のカマグエイ州でも反乱行動が開始された。各地の反乱軍・独立運動家が集結してカマグエイ州で開催された議会は4月10日に共和国憲法を発布し、12日にセスペデスを初代大統領に選出した。 セスペデスは西部侵攻作戦を進めていたオリエンテ軍司令官のゴメスを1872年6月に命令違反から左遷するも、1873年10月27日に保守勢力が多数派を占める議会の席で、敵対姿勢を取った事で独裁的権力が強く批判されて失脚。ゴメスは軍務に復帰して西部侵攻作戦を再開したが、議会からの圧力もあって作戦は中止される。 新たにスペイン軍総司令官に就任したアルセニオ・マルティネス・カンポスは後退を続ける反乱軍に対して停戦と和解の方針を打ち出し、1878年2月10日についに停戦協定が締結された。協定では財務状況を改善するための様々な改革が約束され、奴隷制度の廃止も合意された。10年間の戦争で約20万人が命を失った。 この戦闘が終結した17年後の1895年2月24日に第二次キューバ独立戦争が勃発し、1898年4月25日にアメリカ合衆国が介入して米西戦争に発展した。同年12月10日のパリ条約により、キューバの独立が承認された。
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戦争の経緯
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「露土戦争 (1676年-1681年)」の記事における「戦争の経緯」の解説
ウクライナ西部のポジーリャは1672年から1676年までの間行われたポーランド・オスマン戦争(en)でオスマン帝国に占領され荒廃した。オスマン帝国政府は、右岸ウクライナ(ウクライナ北西部・ドニエプル川右岸地域)のウクライナ・コサックのヘトマンであったペトロ・ドロシェンコによる支持を受け、1669年より右岸ウクライナ全土にオスマン帝国の法律を広めるように努めた。この親トルコ政策は多くのウクライナ・コサックの間で不満を引き起こし、1674年に唯一の全ウクライナのヘトマンとして左岸ウクライナ(ウクライナ南東部・ドニエプル川左岸地域)のヘトマンであったイヴァン・サモイロヴィッチ(en)を選んだ。 ドロシェンコはこれに反撃を行うことを決め、1676年に12,000人の兵を率い、かつてコサック国家の首都であり当時はチヒルィーン連隊の中心地であったチヒルィーンの町を占領し、隣接するオスマン帝国のトルコ・タタール軍の加勢を期待した。しかし、サモイロヴィチ率いるウクライナ軍及びグレゴリー・ロモダノフスキー(en)率いるロシア軍がチヒルィーンに押し寄せ、ドロシェンコは降伏、ロシア・ウクライナ軍はチヒルィーンに駐屯軍を残してドニエプル川の左岸へと退いた。オスマン帝国のスルタン・メフメト4世はドロシェンコの代わりに、当時スルタンの捕虜であったユーリ・フメリニツキー(en)を右岸ウクライナのヘトマンに指定した。 翌1677年7月、メフメト4世はイブラヒム・パシャに120,000人の軍を率いてチヒルィーンに進軍するように命令し、8月4日にチヒルィーンに到着した。サモイロヴィッチ及びロモダノフスキーの軍も10日に集結し、24日までにスーラ川を渡河してチヒルィーンに到着した。 26日から27日にかけて両軍が小競り合いを始めたが、戦闘でオスマン帝国軍の監視所が壊滅したため、ロシア・ウクライナ軍の渡河が容易となり、ロシア・ウクライナ軍はオスマン帝国軍を圧倒し、28日にはイブラヒムのキャンプを攻撃して多数の死傷者を与えた。翌29日、イブラヒムはチヒルィーンの包囲をやめてイグル川に撤退。オスマン帝国軍は20,000人の兵を失い、イブラヒムはコンスタンティノープルへの帰還と共に収監された。 1678年7月、大宰相カラ・ムスタファ・パシャに率いられた80,000人のオスマン帝国軍は再びチヒルィーンへと押し寄せた。200,000人のロシア・ウクライナ軍はオスマン帝国軍の防衛線を突破したが、既にチヒルィーンは11日にオスマン帝国軍に占領されていた。ロシア軍はドニエプル川を越えて撤退し、追撃するオスマン帝国軍を撃退し、戦闘は沈静化した。 1679年から1680年にかけてロシア軍はクリミア・タタール人の攻撃を撃退し、1681年1月にバフチサライ条約に調印した。この条約によってオスマン帝国とロシアの国境がドニエプル川によって確定された。
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戦争の経緯
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「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「戦争の経緯」の解説
ディンウィディーは、ワシントンが戻るかなり前に、ウィリアム・トレント(英語版)をオハイオに派遣した。1754年が開けて間もないころで、フランス軍は倉庫のある、規模の小さな砦の建設を始めたところだった。デュケーヌ総督は、同じ時期に、サン=ピエールを解任し、クロード=ピエール・ペコーディ・ド・コントルクール(英語版)の指揮のもと500人の兵が、1754年の4月5日に南にあるヴェナンゴ砦を出発した。4月16日にコントルクール一行はル・ブッフ砦に着いた。トレントの小規模な軍勢の撤退を気前よく許し、建築道具を購入して、後にデュケーヌ砦となる砦の建設を続けた。 ワシントンが報告書を携えてウィリアムズバーグに戻ったのち、ディンウィディーはワシントンに、より大きな軍をトレントの援軍として指揮するように命じた。ル・ブッフ砦に向かう途中で、ワシントンは、トレントが退却したことを知った。タナチャリゾンがワシントンへの支援を約束していたため、ワシントンはそのままデュケーヌ砦に向かい、このミンゴ族の族長と会った。この周辺にはフランスの偵察兵がいることを聞かされて、ワシントンは兵のうち何人か、そしてタナチャリゾンと彼の手下のインディアン兵たちを連れて行って、3月28日にフランス軍を不意打ちした。フランス軍の多くが戦死し、その中には指揮官のジョゼフ・クーロン・ド・ジュモンヴィユ(英語版)もいた。ジュモンヴィユの首は、伝えられるところによると、タナチャリゾンからトマホークで2つに裂かれたと言われている。歴史家のフレッド・アンダーソンは、タナチャリゾンがなぜそうしたのかについて、ミンゴ族の間での権威を取り戻すためにはイギリスの支援を得る必要があると考え、この行為に及んだのではないかと示唆している。ミンゴ族の多くは、長い間の交易相手であるフランスを支持しようとしていたからである。タナチャリゾンの兵は、コントルクールに、ジュモンヴィユはイギリス兵の銃により殺されたと言っている。このジュモンヴィルグレンの戦いは、歴史家の間でフレンチ・インディアン戦争の最初の戦闘であり、オハイオ領土での交戦の始まりとされている。 この戦闘の後、ワシントンは数マイル後退してネセシティ砦を建てた。はその年の7月3日、この砦はフランス軍の襲撃を受けることになり、ワシントンはこの戦いで降伏した。この時、ワシントンは武装しての撤退ができるよう交渉している。この時のワシントン軍の兵士によると、フランス軍はショーニー、デラウエア、そしてミンゴ諸族の者を連れていた。そのミンゴ族こそ、タナギリソンがイギリスの味方をするようにつとめていた者達だった。 この2つの戦いの知らせが8月になってイギリスに伝わり、初代ニューカッスル公トマス・ペラム=ホルズ政権は数か月の交渉の後、フランス撃退のため翌年に遠征軍を送ることを決めた。陸軍少将エドワード・ブラドックがその指揮官に選ばれた。このイギリスの軍事計画については、ブラドックが北アメリカに発つ前にフランスに細かい情報が洩らされ、国王ルイ15世は、1755年、ディスカウ男爵ジャン・エルドマン指揮下の、6つの連隊をヌーベルフランスに派遣した。イギリス軍は、フランスの港の封鎖をもくろんで、1755年に艦隊を送り込んだが、フランスの艦隊もすでに北アメリカに向かっていた。提督[要曖昧さ回避]のエドワード・ホークは、速戦隊(fast squadron)を北アメリカに送り、フランスを阻止しようとした。次なるイギリスの攻めの手として、提督エドワード・ボスコーエンは、1755年6月8日の海戦で、フランス艦のアルシドと、2隻の輸送艦に砲撃を加えた。1755年を通して、イギリスはフランス艦隊の艦を奪い、水夫を捕囚するなどして嫌がらせを続けた。このことは、最終的に1756年の正式な宣戦布告へ貢献した。
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戦争の経緯
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1807年11月、ナポレオンは、ポルトガル摂政ジョアン王子(後のジョアン6世)が大陸同盟への参加を最終的に拒絶したのを受けて、ジャン=アンドシュ・ジュノー指揮する部隊にポルトガル攻略を命じ、スペインに送った。同時に、スペイン首相マヌエル・ゴドイがナポレオンの委任を受けて、デュポン将軍率いる部隊をカディス方面に送り、スールト将軍の部隊をコルナ方面に送った。ポルトガル占領と艦隊奪取を目論んでいたのはゴドイも同じで、スペイン軍2個師団をフランス軍と合流させている。両軍の侵攻に対し、ポルトガルの首都リスボンは、守備隊がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、抵抗もないまま、12月1日に攻略された。しかしすでに11月29日にポルトガル女王マリア1世と摂政ジョアン王子本人、そして6000人もの人々(艦隊の9000人の船員がそれに加わる)が艦船に乗って逃亡しており、ジョアン王子にブラジルを含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオンにとって大きな打撃となり、そのことはセント・ヘレナ島の記念碑に「これが私を滅ぼした。(C'est ça qui m'a perdu)」と記されている。 仏・西軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオンは、軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領された。外国軍の進駐を受けたスペインでは貴族たちによる政変が発生、カルロス4世は退位、彼が用いていたゴドイは失脚、代わってフェルナンド王子がフェルナンド7世として即位した。それを受けたナポレオンは、スペイン王家をバイヨンヌに追放して、5月5日に親子2人共に退位を強制し、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与えたのである。傀儡のスペイン議会はこの新王を承認した。ジョゼフ改めスペイン王ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、フランス人支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、マドリードの市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こしたのである。しかしこの蜂起はミュラによって粉砕された。マドリードの蜂起はスペイン全土に広がった。 それまでイギリスは海戦では輝かしい勝利を何度も収めたものの、大陸における陸戦で中途半端な“へま”と相次ぐ敗戦で(1809年のワルヘレン遠征を最後に)面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしではイギリス陸軍はフランスに対して勝利は望めず、イギリスはいまだヨーロッパ大陸に足がかりを築けないでいた。そういうわけで、ポルトガルはナポレオンとの戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。 スペイン軍は、7月16日から19日にかけてのバイレンの戦いでピエール・デュポン指揮のフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15000人以上の捕虜を得た。この戦いでホセ1世はマドリード撤退を余儀なくされた。6月18日にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに介入の誘惑を掻き立て、「王侯貴族でなく人民が『大いなる侵略者』に反乱を起こした」というイギリスの宣伝通り、これまでのナポレオン戦争ではなかった展開を見せることになる。
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「ランゴバルド・ゲピド戦争 (567年)」の記事における「戦争の経緯」の解説
566年、ランゴバルド王アルボインはパンノニアのアヴァールと協定を結び、彼らがゲピド族を破ったならその土地を奪ってよいと認めた。567年、ゲピド族はアヴァールとランゴバルド族の連合軍に壊滅させられた。ゲピド王クニムンド(ドイツ語版)は、アルボイン自身の手で殺された。
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戦争の経緯
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「露土戦争 (1568年-1570年)」の記事における「戦争の経緯」の解説
ロシア帝国はバルト海沿岸地域においてリヴォニア戦争を戦っており、そちらで手がいっぱいだった。一方オスマン帝国軍は、1559年、15,000人のイェニチェリと2,000人のスィパーヒー、1,000弱の軽装歩兵 (en:Azap) および軽騎馬 (en:Akıncı) からなる軍隊を黒海の北側に派遣した。5月31日、そこで彼らはクリミア・ハン国のデウレト・ギレイ・カーン(英語版)率いる50,000人の騎馬兵と合流した。 その後、軍は100キロメートル以上になる運河を建設するために、アストラハンへ向かって移動した。運河の建設が大仕事であることがわかり、建設は一旦停止し、オスマン帝国軍のリーダーはヴォルガ川を下りアストラハンへと戻った。現地のテュルク系民族であるノガイ族に遠征のための船を提供し、アストラハンをロシアから解放するための戦いに備えた。しかし、重火器はボートでアゾフに戻され、残ったのは12門の大砲のみだった。1569年9月16日にオスマン帝国軍はアストラハンに達した。指揮官のカシム・パシャは十分な大砲がなかったため、ロシア軍の防衛地から適当な距離を置いて包囲し、越冬のためのキャンプの準備をはじめた。皇帝イヴァン4世は包囲を断つためにカシムに贈り物をして説得を行い、カシムがそれを受け入れたため包囲は完了しなかった。冬を越えることがキャンプに知らされると、配当物資が少なく越冬を生き残ることができないのではないかとおびえた兵士たちによる混乱と反乱が発生した。クリミア・タタール人は、オスマン帝国がアストラハンへの断固とした抵抗のためのヴォルガ川での運河の建設を確実に完成させることが可能な国家であると信じていた。その時点でカシムは、ヴォイヴォダ・ピョートル・セレビアノフ率いる30,000以上の騎兵がロシア軍の援軍に現れるという噂を聞いていた。そのためカシムは、9月26日にアストラハンからの撤退を決定した。 いくつかのロシア側の資料では、セレビアノフが戦闘に勝利したことには言及されているが、正確な戦闘の経緯は不明である。オスマン帝国軍は北カフカースまで退却したが、そこで飢えとチェルケス人 (en:Circassians) の攻撃によって兵の70%が失われ、結局カシムは小隊と化した隊と共にアゾフへと帰還した。
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