戦争の終結とその後の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 00:34 UTC 版)
「清・シク戦争」の記事における「戦争の終結とその後の影響」の解説
1842年9月16日あるいは17日、清・チベット軍とシク軍との間でラダックの中心都市レーにおいて、条約が締結された。シク王国は当時イギリスとの緊張が増しており、また清はイギリスとのアヘン戦争が終結目前に迫っていたため戦争の資金も底をつきかけていた。結ばれた条約はジャンムーのグラーブ・シングの邸宅で批准された。 このとき結ばれた条約により、清朝とシク王国は互いの国の国境を侵犯せず、干渉をしないことが定められた。また、シク王国とチベットは双方の友好関係と国境を確認し、通商の援助などについて合意した。さらに、シク王シェール・シング、ドーグラー王グラーブ・シング、チベットのダライ・ラマ11世、清の皇帝はそれぞれ個人においても友好を保つことが定められた。 その後、シク王国はランジート・シング死後の一連の内紛に苛まれ、それに介入しようとするイギリスとの関係が悪化した。シク王国はイギリスとの間で発生した戦争(シク戦争)に敗れ、1849年に消滅した。ドーグラーの王グラーブ・シングはシク戦争でイギリスに味方した功により、シク王国のカシュミール領を与えられ、ジャンムー・カシュミール藩王国の藩王となった。 他方、チベットの側では、今回の戦争で清が本国から援兵を派遣しないなど積極的な支援を行わなかったこともあって、清に対する信頼が揺らいだ。次のネパール王国とのネパール・チベット戦争でも積極的な支援を行わなかったため、清朝皇帝の「転輪聖王たる文殊皇帝」としての権威は失墜していった。
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