戦争の終了と軍の解散
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1865年4月9日、リーがアポマトックス・コートハウスでグラントに降伏したが、翌4月10日にシャーマンはノースカロライナ州ローリーへ向かって前進を再開していた。今回の兵力は約90,000人—右翼はハワードのテネシー軍、中央はスコフィールドのオハイオ軍、左翼はスローカムのジョージア軍—であった。シャーマンがリーの降伏を知ったのは、4月11日から12日のかけての夜であった。シャーマンの直接の敵はローリー近くにあったジョンストンの軍であったが、もはや戦闘を行う必要はほとんど無くなった。シャーマンは13日にローリーに入城したが、ジョンストンは長くまた微妙な降伏交渉を開始した。4月26日、ジョンストンは南北カロライナ、ジョージアおよびフロリダの全南軍と共にダーラム駅でシャーマンに降伏した。その後、テネシー軍とジョージア軍はワシントンD.C.まで250マイル行軍し、シャーマンと共に5月24日の大観閲式に参加した。 マクファーソンの戦死後、ローガンを飛び越えてハワードがテネシー軍司令官を務めていたが、その傷心を和らげるため、シャーマンはローガンを最後のテネシー軍司令官に任命した。このため、大観閲式ではローガンが軍を率いた。7月13日、ローガンはテネシー軍に対し、「4年に渡って人類がかって経験した事が無い悲惨で破壊的な戦争に苦しみつつ、我々は、今日まで、反乱軍が我々から奪い取った全ての要塞と武器庫、五大湖からメキシコ湾までの都市、町、村々に国家の統一と強さを示す星条旗をかかげてきた」との惜別の意を表している 。1865年8月1日、テネシー軍は解散した。
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