衆議院へのクーデタをめざして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:34 UTC 版)
「エドヴィン・フォン・マントイフェル」の記事における「衆議院へのクーデタをめざして」の解説
ローンがヴィルヘルムの指示のもと立案した軍制改革の予算案をめぐって、政府と衆議院自由主義派の対立が深まると、マントイフェルはカール王子や侍従武官長グスタフ・フォン・アルフェンスレーベン(ドイツ語版)中将らとともに衆議院に対する軍事クーデタをヴィルヘルムに進言するようになった。マントイフェルはクーデタによって憲法を廃止し、絶対王政と軍事独裁政権を復古させる腹積もりだったが、国王も陸相ローンもその計画には慎重だった。 衆議院の反政府闘争が激化していく中、自由主義左派政党ドイツ進歩党議員カール・トヴェステン(ドイツ語版)がマントイフェルのことを「不健全な地位にある不健全な人物」「軍隊と久しく没交渉状態にある政治将軍」と中傷するパンフレットを作製した。これに激怒したマントイフェルは、1861年5月27日にトヴェステンと決闘に及び、トヴェステンの右腕を撃ち抜いた。この決闘は話題になり、国王ヴィルヘルムも衝撃を受けたという 1862年9月、ローンと親しいビスマルクがヴィルヘルムによって宰相に任じられたが、ビスマルクにクーデタの意思はなく、無予算統治で軍制改革を断行した。しかしマントイフェルは衆議院に対する軍事クーデタを諦めなかった。 1864年の対デンマーク戦争のデュッペル要塞を攻撃すべきか否かの論争ではビスマルクやローンとともに攻撃派に属した。ビスマルクやローンはこの要塞を落とすことで国内に話題性を作り、憲法闘争を有利にしようと目論んでいたが、マントイフェルはクーデタヘ繋げることを狙っていた。 そのためデュッペル要塞が陥落するとマントイフェルは「今や国内のデュッペル要塞が問題」と唱えて、再び衆議院に対するクーデタを主張し始めた。また対デンマーク戦争勝利後、ビスマルクが小ドイツ主義統一の次なる標的としてオーストリア帝国への敵視政策をとるようになったことに反対し、オーストリアと反革命連帯を結ぶことを主張した。加えて宰相ビスマルクと陸相ローンの接近を国王の統帥権を弱めるものと看做して警戒し、二人に対する対決姿勢を強めていった。 1865年5月28日、マントイフェルは国王にデンマークが放棄したシュレースヴィヒとホルシュタインの完全な併合を要求した(これによって政府と衆議院との係争状態を作り出し、軍事クーデタのチャンスを作ろうという意図だった)。またビスマルクの反墺政策に反対する旨を表明し、「プロイセンを統治するのは国王か大臣たちか」と国王に詰め寄った。マントイフェルの動きに警戒感を強めたビスマルクとローンは、翌月にもヴィルヘルムに直談判し、「オーストリアとの係争地域になっているシュレースヴィヒの総督には重要人物を置く必要がある」と説得し、ついにマントイフェルをシュレースヴィヒ総督に「栄転」させて中央から追放した。
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