反政府闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 16:03 UTC 版)
ソー・ピムはベトナムと国境を接する東部地域の軍司令官となり、同地域における闘争を指揮した。1951年8月、インドシナ共産党の分党により新たにクメール人民革命党が結成されると、ピムも創立メンバーの1人として参加。1954年冬にはベトナムにより任命された党暫定中央委員会の5人の委員の1人となった。 その後、1954年7月に締結された第一次インドシナ戦争の休戦協定に基づき、イサラクのメンバーは北ベトナムのハノイに集結したが、その中にはピムもいた。しかし、2年と経たずに密かにカンボジアへと帰国する。ピムは1950年代からベトナムの共産勢力と関係を深め、住民には穏健な政策を施した。 しかし、1950年代後半にはシハヌーク政権による弾圧が熾烈となり、ソー・ピムも一時活動から手を引いていた。ピムとその部下たちは、プノンペンにおいて政府の建築現場で大工仕事をしていた。さらに1959年、シウ・ヘン党書記が脱党したことにより、党組織は崩壊してしまう。このため、新たな指導者選出まで党を率いる「総務委員会」が結成されたが、おそらくソー・ピムも委員であったと推定されている。1960年、ソー・ピムは東部地域書記に任命され、以降1978年に死去するまで同職を務めることになった。同年9月の党大会において党名が「カンボジア労働党」に改められ、新指導部が選出されると、ソー・ピムも党中央委員に選出され、党内序列第8位となった。 1963年2月の党大会において党中央委員会常任委員に選出され、序列第4位に昇格した。ソー・ピムはこの時、サロト・サル(別名、ポル・ポト)とトップである党書記の座を争ったが、及ばなかった。 1970年、ロン・ノル将軍がクーデターでノロドム・シハヌーク元首を追放すると、クメール・ルージュはシハヌークと統一戦線を結成して反政府武装闘争を本格化した。イエン・サリの証言によれば、ソー・ピムは、遅くとも1970年以後にはその存在が公表された党中央委員会軍事委員会で委員を務めていた。 また、1972年3月に革命軍司令部のメンバーが公表されたが、この時点でソー・ピムは軍政治部門においてヌオン・チアに次ぐ第2位の地位にあったことが確認されており、後には軍副総参謀長を務めた。
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