貴族院を使って反政府闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 23:55 UTC 版)
「アーサー・バルフォア」の記事における「貴族院を使って反政府闘争」の解説
ジョゼフ・チェンバレンが病に倒れたせいもあって彼の党内における力は強化されていたが、庶民院において自由党が圧倒的多数を占めていたためできることは限られていた。このためバルフォアは保守党貴族院院内総務(英語版)のランズダウン侯爵と協力し、貴族院議員を使って自由党の政策や法案に抵抗するようになった。 早くも1906年4月には初等教育から宗教教育を排除することを目的とした「教育法案」を貴族院で葬った。これに反発した首相キャンベル=バナマンや急進派閣僚の通商大臣(英語版)ロイド・ジョージは貴族院改革の意を強めた。キャンベル=バナマンは1907年6月にも庶民院の優越を定める法律を制定すべきとする決議案を議会に提出し、その決議案説明の中でロイド・ジョージは「貴族院は長きにわたり、憲法の番犬だったが、今やバルフォアのプードルである。彼のために吠え、使い走りをし、彼がけしかけたどのような物にも噛みつく」と怒りを露わにした。 だがバルフォアは態度を翻すことはなく、首相がアスキスに変わった後の1908年7月にも醸造業者の独占制限を目的とする「酒類販売免許法案」を貴族院で否決させた。この際に急進派閣僚の通商大臣ウィンストン・チャーチルは「我々は貴族院を震え上がらせるような予算案を提出するであろう。貴族院は階級闘争を開始したのだから」と語ったという。
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