貴族院事務局時代
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島根県松江市出身。1927年に東京帝国大学法学部政治科を卒業し、内務省に入省。1931年12月に貴族院書記官に任ぜられ、以後、貴族院事務局で委員課長、議事課長、庶務課長を務めた。 この間、1935年の天皇機関説事件の際には、菊池武夫男爵による政府に対する緊急質問の通告を聞いた美濃部達吉から一身上の弁明のための発言通告を受け、近藤は恩師でもある美濃部に対し、一身上の弁明をせずに黙殺する方が賢明であり、菊池男爵のような右翼議員はいかによく説明しても納得するわけはなく、菊池が屈服したとしても背後の右翼勢力を刺激するだけである旨を伝えたが、美濃部は「お前の言うところは十分わかる。しかし‥自分が正しいと信じて説いて来ている学説に対して批判が加えられる以上、学者の信念として沈黙は出来ない。‥学問の生命を守るために発言はしたい」と述べたため、発言通告を受け取った。美濃部の一身上の弁明を聞いた菊池男爵も説の不敬ではないことを議場で認めたが、その後美濃部は議員辞職を余儀なくされた。 また、1936年の二・二六事件の際には、当時の小林次郎庶務課長(後の参議院事務総長)から命ぜられ、衆議院側に仮議事堂(日比谷)の借用を要請に来た反乱部隊が賊軍か官軍かを確かめるために、反乱部隊の占領地域を通り抜けて九段の軍人会館の戒厳司令部に赴き「形の上では戒厳司令部の指揮下に入っているが、彼らと無益な争いはしないでもらいたい。議事堂に玉座のあることを指摘すれば乱暴などはないだろう。」との旨の回答を得て帰院したところ、既に衆議院を来訪した将兵は、仮議事堂がコンクリート造でなくバラックでタイガーボードの壁は弾丸が貫通することを知り、引き上げていたという。 1938年には、明治憲法発布50年を記念して、議事堂中央広間に伊藤博文、大隈重信、板垣退助の銅像が配置されたが、その際、北村西望の彫塑による板垣退助の銅像の原型を見た議員から「開院式の陛下の道筋にポケットに手を突っ込んで立っている銅像を置くのは不敬だ」との声が上がったため、交渉役に当たった近藤は北村を訪問し、手をポケットから出すことを依頼したところ、北村から「板垣伯を表現するにはあの形が最善であり、髪毛一本変更できない。原型は会心の出来と思っているので、製作は進める。買い上げられなくてもやむを得ない」旨を告げられた。その旨を貴族院の各派交渉会で報告したところ近藤の意見が求められ「作品に支障はない。ポケットから手を出せという論を推し進めれば、最敬礼の銅像だけしか置けず、土下座の銅像でも置くか、あるいは銅像を置かないことになる。」などと述べたこともあり、結局北村の原型に従った作品が配置された。 第二次世界大戦中に金属回収本部が設置され、議事堂のシャンデリアやブロンズ扉なども精神総動員のために供出することが求められたが、近藤は金属回収本部長に対して「日本の戦勝後の講和会議を議事堂で開くならば、物量豊かな敵国人たちはシャンデリアなどの外された議事堂を見て降伏したことを後悔し、勝利者日本の命令を聞かなくなるのではないか」と難詰し、供出は中止された。
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