貴族院事務局時代とは? わかりやすく解説

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貴族院事務局時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 22:12 UTC 版)

近藤英明」の記事における「貴族院事務局時代」の解説

島根県松江市出身1927年東京帝国大学法学部政治科を卒業し内務省入省1931年12月貴族院書記官に任ぜられ、以後貴族院事務局委員課長議事課長庶務課長を務めたこの間1935年天皇機関説事件の際には、菊池武夫男爵による政府対す緊急質問通告聞いた美濃部達吉から一身上弁明のための発言通告を受け、近藤恩師でもある美濃部対し一身上弁明をせずに黙殺する方が賢明であり、菊池男爵のような右翼議員はいかによく説明して納得するわけはなく、菊池屈服したとしても背後右翼勢力刺激するだけである旨を伝えたが、美濃部は「お前の言うところは十分わかる。しかし自分正しいと信じて説いて来ている学説に対して批判加えられる以上、学者信念として沈黙出来ない学問生命を守るために発言はしたい」と述べたため、発言通告受け取った美濃部一身上弁明聞いた菊池男爵も説の不敬ではないことを議場認めたが、その後美濃部議員辞職余儀なくされた。 また、1936年二・二六事件の際には、当時小林次郎庶務課長(後の参議院事務総長)から命ぜられ、衆議院側に仮議事堂日比谷)の借用要請に来た反乱部隊賊軍官軍かを確かめるために、反乱部隊占領地域を通り抜けて九段軍人会館戒厳司令部に赴き「形の上では戒厳司令部指揮下に入っているが、彼らと無益な争いはしないもらいたい議事堂玉座のあることを指摘すれば暴などはないだろう。」との旨の回答得て帰院したところ、既に衆議院来訪した将兵は、仮議事堂コンクリート造でなくバラックタイガーボードの壁は弾丸貫通することを知り引き上げていたという。 1938年には、明治憲法発布50年記念して議事堂中央広間伊藤博文大隈重信板垣退助銅像配置されたが、その際北村西望彫塑による板垣退助銅像原型見た議員から「開院式陛下道筋ポケットに手を突っ込んで立っている銅像を置くのは不敬だ」との声が上がったため、交渉役に当たった近藤北村訪問し、手をポケットから出すことを依頼したところ、北村から「板垣伯を表現するにはあの形が最善であり、髪毛一本変更できない原型会心の出来思っているので、製作は進める。買い上げられなくてもやむを得ない」旨を告げられた。その旨貴族院各派交渉会で報告したところ近藤意見求められ作品支障はない。ポケットから手を出せという論を推し進めれば、最敬礼銅像だけしか置けず、土下座銅像でも置くか、あるいは銅像置かないことになる。」などと述べたこともあり、結局北村原型従った作品配置された。 第二次世界大戦中金属回収本部設置され議事堂シャンデリアブロンズ扉なども精神総動員のために供出することが求められたが、近藤金属回収本部長に対して日本戦勝後の講和会議議事堂で開くならば、物量豊かな敵国人たちはシャンデリアなどの外され議事堂見て降伏したことを後悔し勝利者日本命令を聞かなくなるのではないか」と難詰し、供出中止された。

※この「貴族院事務局時代」の解説は、「近藤英明」の解説の一部です。
「貴族院事務局時代」を含む「近藤英明」の記事については、「近藤英明」の概要を参照ください。

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