貴族院保守党の指導者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:26 UTC 版)
「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「貴族院保守党の指導者として」の解説
1881年4月、長らく保守党党首を務めてきたビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリが死去した。突然のことだったので保守党は後任を決めていなかった。ソールズベリー侯爵はディズレーリに代わって保守党貴族院院内総務となったものの、保守党全体の党首とはならなかった。庶民院保守党は保守党庶民院院内総務サー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導するという両院別個の二党首体制が取られることになった。 当時はまだ庶民院の優越を定めた法律はなかったものの、庶民院が優先されるべきという考え自体はすでに議会内に根強くあり、またソールズベリー侯爵は大命を下すヴィクトリア女王と関係が疎遠だったので、ディズレーリの死後しばらくの間はノースコートの方が有利な立場にあった。 しかしノースコートは性格的に温和な人物だった上、若い頃グラッドストンの秘書だった関係からグラッドストン政権に対して常に弱腰だった。そのため庶民院保守党内には彼の党指導に反発する声が強く、とりわけランドルフ・チャーチル卿やアーサー・バルフォアら「第4党(英語版)」はノースコートを差し置いて強力なグラッドストン政権批判を展開した。これによりノースコートの影は薄くなっていき、必然的に保守党を指導すべき者はソールズベリー侯爵ということになっていった。 [先頭へ戻る]
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