貴族院改革案をめぐって
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その後、批判が高まる清浦内閣は解散総選挙に踏み切り、総選挙後護憲三派による加藤高明内閣が発足した。加藤内閣は貴族院中心の内閣に対する倒閣運動の結果成立した政権であるため、加藤内閣下では貴族院改革の議論が本格化し始めた。しかし貴族院側は院内での自発的改革を志向する議員が多く加藤内閣への反発を強めていった。1924年10月10日に加藤内閣は内閣部局内に貴族院制度改善調査委員会を設置し、その調査補助委員を貴族院議員から選出しようとしたが、家達は謝絶した。新聞報道によると加藤内閣側は改革案を貴族院の権限と貴族院の組織に関する事項に大別し、権限に関する事項は憲法に抵触しない範囲で議会法の改正によって行うとしていたが、河井は「其条項ハ少キカ如シ」と書いており、家達も同じ意見だったと思われる。 1925年(大正14年)3月10日に貴族院改革案が貴族院に提出され、貴族院本会議では加藤高明によって法案提出説明が行われ、ついで議員からの質疑があり、その後改革案は特別委員27名に付託されることが決定された。貴族院における特別委員の選定は議長指名に一任されるのが慣例となっていた。しかし研究会と交友倶楽部は「近時徳川議長が兎もすれば政府の肩を持つ嫌ひあり」として「議長一任」による特別委員会指名は加藤内閣寄りになるとして反対し、院内四派(研究会・公正会・交友倶楽部・茶話会)が共同で貴族院改革のような重大事案は議場選挙によって特別委員を決定すべしと要求。近衛文麿公爵が研究会を代表してそれを家達に伝えたが、家達はこれを拒否した。しかし特別委員を倍数の候補者の中から選定することを近衛に返答した。つまり各派の協議により規定人数の倍の特別委員候補名簿を作らせ(今回のケースでは54名)、その中から家達が選ぶということである。家達は佐佐木に「議長は特に不公正なことはやらない。誰が見てもそうだと思う人選をするのだからよいじゃないか」と述べており、これを聞いた佐佐木は家達は各派からの干渉をよほど嫌がっていると感じた。家達はこれまで当然に行われてきた特別委員の議長一任が突然各派から批判が向けられたことに戸惑いを隠すことができない様子だったという(佐佐木にも明らかにしたように家達にはこれまで公正な人選をしてきたという自負心があった)。特別委員の指名権を持つことは家達の貴族院議員たちに対する権力の源であったからそれが揺らぎかねない事態であり河井は日記で「嗚呼」と嘆いている。 結局改正案は特別委員会で若干の修正を施した後3月25日に議決され、本会議で委員会報告通りに修正可決となった。 これまで貴族院議長として内閣と貴族院の融和を図り、議会政治を裏面から支えてきた家達だったが、貴族院内の院内会派が本格的に「政党化」しはじめる中で対応に苦慮していくことになる。
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