貴族院議員と晩年
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1928年(昭和3年)9月、貴族院議員に任命された。多額納税者議員であり、森本善七死去に伴う補欠選挙での当選であった。1932年(昭和7年)再選。任期は7年で、1939年(昭和14年)にも再選した。最終的に1947年(昭和22年)5月の貴族院廃止まで同議員を務めている。貴族院において民義は、国会会期中には毎日議会に出席したという。 電気事業では貴族院議員となってからも大同電力取締役に在任し、福澤桃介が1928年に社長を辞任した後も続いていたが、1931年(昭和6年)6月にこれを退任した。その後は同社の常任監査役に転じた。旧日本水力系の重役や京阪電気鉄道の太田光熈が福澤の後任社長増田次郎を監督する必要がある、として民義を無理に常任監査役に据えたという。常任監査役には、大同電力が国策電力会社日本発送電へと設備を移管し解散する1939年(昭和14年)4月まで在任した。 1942年(昭和17年)2月、東邦商業学校の経営主体として「財団法人下出教育報効団」(後に「財団法人下出教育財団」に改称)が認可を受ける。設立者・理事長は下出義雄だが、戦後の1946年(昭和21年)11月に民義が理事長となった。東邦商業学校と1946年に設立された旧制東邦中学校は、戦後の学制改革に伴い東邦中学校および東邦高等学校に改められる。これら「東邦学園」の創立30周年(1953年)を前にした1952年(昭和27年)8月16日、教育財団理事長在任のまま名古屋市南大津町の自邸にて民義は死去した。満90歳没。
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