貴族院議員と晩年とは? わかりやすく解説

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貴族院議員と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:46 UTC 版)

下出民義」の記事における「貴族院議員と晩年」の解説

1928年昭和3年9月貴族院議員任命された。多額納税者議員であり、森本善七死去に伴う補欠選挙での当選であった1932年昭和7年再選任期7年で、1939年昭和14年)にも再選した最終的に1947年昭和22年5月貴族院廃止まで議員務めている。貴族院において民義は、国会会期中には毎日議会出席したという。 電気事業では貴族院議員となってからも大同電力取締役在任し福澤桃介1928年社長辞任した後も続いていたが、1931年昭和6年6月にこれを退任したその後同社常任監査役転じた旧日本水力系の重役京阪電気鉄道太田光熈が福澤後任社長増田次郎監督する必要がある、として民義を無理に常任監査役据えたという。常任監査役には、大同電力国策電力会社日本発送電へと設備移管解散する1939年昭和14年4月まで在任した1942年昭和17年2月東邦商業学校経営主体として「財団法人下出教育報効団」(後に「財団法人下出教育財団」に改称)が認可を受ける。設立者理事長下出義雄だが、戦後1946年昭和21年11月に民義が理事長となった東邦商業学校1946年設立され旧制東邦中学校は、戦後学制改革に伴い東邦中学校および東邦高等学校改められる。これら「東邦学園」の創立30周年1953年)を前にした1952年昭和27年8月16日教育財団理事長在任のまま名古屋市南大津町自邸にて民義は死去した。満90歳没。

※この「貴族院議員と晩年」の解説は、「下出民義」の解説の一部です。
「貴族院議員と晩年」を含む「下出民義」の記事については、「下出民義」の概要を参照ください。

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