貴族院議員・議長としてとは? わかりやすく解説

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貴族院議員・議長として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 19:02 UTC 版)

近衛篤麿」の記事における「貴族院議員・議長として」の解説

明治23年1890年)に帰国同年貴族院発足し公爵だったために無選挙でその議員となる。議長伊藤博文伯爵代わりに仮議長務め会期大部分を彼が議長職を代行していた。院内会派として同志会結成。翌24年1891年)に三曜会改称同年月曜会設立して同志募った月曜会しばらくして自然消滅向かったが、篤麿同じく五摂家出身二条基弘と共に三曜会属し谷干城らが結成した懇話会共同歩調取り貴族院政治活動行った。後に三曜会衰退する朝日倶楽部合併同じく活動低調になった懇話会とも合併し新たに結成した土曜会移り活動続け次第政界重要な地位占めようになった貴族院色んな活動行ったが、政党政治家にはならず党利党略的な活動はしなかった。白柳秀湖によれば武士階級ともすれば露骨な利己主義なのに対し公家階級出身の彼は国家的見地立って進退するという。明治天皇内命をもって侍従長介し篤麿意見があれば何事も随意に奏聞するよう命じていた。これは異例のことだったが、皇室近衛家特別な関係及び篤麿卓越した見識評価されことによるのだった明治24年1891年)の大津事件ロシア皇太子ニコライ襲撃された際には貴族院代表して皇太子見舞った後、閣僚問責運動起こしている。 明治25年1892年)に貴族院議長就任し病気退任する明治36年1903年)まで務めている。明治28年1895年)には学習院院長となり、華族の子弟の教育に力を注いだ。彼は政治活動活発だったので多額資金要したが、収入貴族院議長公爵貴族院議員として無給)と学習院院長としての給料しかなかったので常に借金をしていた。 第1次松方内閣樺山資紀海軍大臣の「蛮勇演説」を廻って紛糾し空転した衆議院の解散総選挙では、品川弥二郎内務大臣中心となって行った選挙干渉民党側に死者25名・負傷者388名を出す惨事になり、篤麿はこれについて政府姿勢追及した。さらに政党のことも猟官主義走ればそれは単なる徒党にすぎない批判した松方正義内閣大隈重信内閣山縣有朋内閣伊藤博文内閣などから入閣誘いがあったが断っている。

※この「貴族院議員・議長として」の解説は、「近衛篤麿」の解説の一部です。
「貴族院議員・議長として」を含む「近衛篤麿」の記事については、「近衛篤麿」の概要を参照ください。

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