貴族院議長退任
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1931年(昭和6年)には家達が貴族院議長に再任されたが、この頃には院内から辞職を求める声もだいぶ上がるようになっていた。 家達は1933年(昭和8年)の段階でも特に辞職の意思はなかったのだが、同年5月8日に右翼団体大化会の中村浩太らが徳川公爵邸に訪問し「勧告書」なるものを差し出してきて家達の返事を要求した。内容は不明だが、後の関係者の対応から見ると家達の議長職の進退に影響が及ぶような内容だったらしく、徳川公爵家の方では警視庁に大化会取り締まりと家達保護を求めた。 家達は旧体制打破と天皇親政国家の樹立を狙う「国家改造計画」を論じる民間右翼や皇道派青年将校から目の敵にされていた。彼らのイデオローグである北一輝の『日本改造法案大綱』には華族や貴族院の廃止が掲げられており、家達はその頂点に位置する存在であるうえ、ワシントン体制の構築に寄与した親英米派でもあり「君側の奸」の代表格と認識されていた。 5月31日には大化会会長岩田富美夫(北一輝の子分)が徳川邸を訪問。岩田は大化会が「勧告書」を出したことを謝罪し、その返還を求める一方、この問題に警視庁が介入するのなら「却テ事端ヲ粉雑セシメ或ハ事実ヲ暴露ヲ促スノ慮アリ」と強気の態度を取った。対応した徳川公爵家の家令成田勝郎は「十分考慮スヘシ」とだけ答えた。更に岩田は電話において『東京毎夕新聞』に関連記事の準備が整っており、徳川家の方で「支給対策ヲ講セラレンコトヲ望ム」と告げてきた。徳川家の方では大化会の脅迫には一切応じないことを決定したが、警視庁としては大化会が「不当ノ範囲」に及んだ場合初めて取り締まりができるので徳川家の意向に十分応じることはできなかった。そのため大化会が「暴露戦術」を取らないうちに家達は速やかに辞職するしかなくなった。 6月に入ると新聞紙面でも家達の議長辞職が取りざたされるようになったが、そこでは健康問題が理由とされており、6月2日に開催された徳川公爵家の家政相談役会を経て非公式に斎藤実首相に辞意が伝えられたという。6月9日に家達は議長を辞した。表面上は議長在任30年を契機にした辞職とされていたので大きな騒動にはならなかった。 なお死去まで息子に爵位を譲ることはなかったので公爵議員として貴族院議員の地位は死去まで維持している。
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