貴族院議長としての姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:54 UTC 版)
家達は貴族院議長として日本の立憲政治史を振り返って帝国議会は「国運の進展、民福の増進」に貢献し、その中でも貴族院は「或は同一案件を慎重に審議するの実を挙げ或は衆議院の決議の偏倚せむとするものを矯正するの効を挙げ或は他院を掣肘して議会先制の弊より免かしめ」てきたと評価した。家達にとってこのような効果が「二院制度の妙味」だった。家達が議長をしていた30年間は、桂園内閣に始まり、憲政の常道の終焉とほぼ重なる。その間、超然内閣・中間内閣・政党内閣といった様々な形態の内閣が誕生したが、貴族院はそれらとある時には対立し、またある時に協調してきた。議長たる家達はそのような明治立憲制の進展に対応すべく、政治過程への直接の介入を避けつつ、伊藤博文が『憲法義解』で示したような貴族院が内閣・衆議院の間の「上下調和の機関」となるべく、その間を取り持ち、円滑な議会運営がなされるため必要な協議の場の主催者たろうとし続けた。院内においても各会派に「公正」で、議場では議院の自治を重んじ、決定された「院議」に従順な議長であろうとした。しかし本格的な政党政治の登場と護憲運動による貴族院批判の高まりによって貴族院が「上下調和の機関」たるに困難な状況が生じ始めた時、家達は新しい時代の貴族院の有り様を問い直すようになり、貴族院は国民の信任に基づいて成立した政党内閣を支援する穏健な第二院に移行させようという模索を始めた。その表れが火曜会への参加だった。しかし憲政の常道期に起きたことは頻発する政党の汚職事件と、それに伴う政党政治そのものへの不信の増大だった。満州事変を契機に国民の支持は政党を離れて軍に移っていった。それは家達が上記の模索をしていた矢先のことであって、模索の前提たる政党政治が自壊し始めてしまったのであり、家達が議長を退くのはその直後の事だった。 家達は、貴族院は衆議院と違って体面を重んじるべきであるという考えを強くもっており、議場で「ノー」とか「ヒヤヒヤ」といった賛否の大声をあげることを非常に嫌い、拍手も制止したことがあった。 家達は貴族院議員たちの姓名・経歴・性格まで知悉していたという。 政治評論家の鵜崎熊吉が1913年に著したところによれば、家達が貴族院議長として貴族院議員たちに臨む態度は「征夷大将軍の三百諸侯に臨むが如く、飽まで威圧的」だったというが「人物としては格別称するに足らざるも、議長としては確かに忠実の二字を冠するに堪ふ」と評価し、特に議場を整理するという議長の本分に関して「公事に於ては公は又一点の情誼を許されない」とし、その公平性を「理想的議長の態度」と評価している。また衆議院議員の尾崎行雄は、重要な議事がある場合には衆議院の傍聴席に必ず家達の姿があり、勤勉さに感心させられたと述べている。 貴族院の副議長は家達が用便で席を空けた時だけ議長席に座るので俗に「小便議長」と呼ばれたが、年老いた後の家達は用便で席を外す頻度が増えたので副議長はいつでも代れるように待機していなければならなくなり、退屈かつ苦痛な仕事であると、1931年に近衛文麿が副議長に就任した際の新聞報道で報じられている。
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