憲政の常道の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:43 UTC 版)
しかし、普通選挙実施に伴い政党は多額の選挙資金確保のため財界と結び付きを深め、結果数々の汚職事件を引き起こすこととなる。また、1929年(昭和4年)の世界恐慌により企業の倒産、失業者の増加、農村の疲弊など社会不安が増し、政党政治そのものが信用を失っていった。そして、1932年(昭和7年)に発生した五・一五事件により犬養毅首相が暗殺されたことで、8年間続いた憲政の常道は幕を下ろすこととなった。 1938年(昭和13年)以後から、日中戦争の長期化や第二次世界大戦の勃発に伴う政治・経済危機、また国民の不満の増大に対して、各内閣は事態を打開する力を持たなかった。 その後、1940年(昭和15年)におこった新体制運動によって両者は解散し、大政翼賛会が成立して東條英機による挙国一致内閣の独裁体制を推進することとなった。
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