不満の増大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 14:26 UTC 版)
「コシチュシュコの蜂起」の記事における「不満の増大」の解説
ポーランド軍の大部分はこの降伏に大いに不満だった。タデウシュ・コシチュシュコやユゼフ・ポニャトフスキなど多くの将軍が王の決断を批判した。戦争に敗れたポーランド・リトアニア共和国は軍を約3万6000人まで減らされた。さらに1794年、ロシアが1万5000人規模への軍縮を要求してきた。こうした状況でポーランド軍に蓄積した不満が、反乱勃発のきっかけの一つとなった。 特に戦争でまだ敗北を喫していなかったコシチュシュコにとって、王の降伏は梯子を外されたも同然だった。1792年9月半ばまでに彼は職を辞し、10月前半にワルシャワをも離れた。コシチュシコはライプツィヒに移住した。ここには彼以外にも政府を離れた有力なポーランド軍人や政治家たちが集まっていた。間もなくコシチュシュコらは、ロシアのポーランド支配を覆すべく反乱の準備を始めた。既にイグナツィ・ポトツキやフーゴ・コウォンタイら政治家のグループが同様の反乱計画を練り始めており、1793年の春にはイグナツィ・ジアウィンスキらも合流して大きな勢力となっていた。イグナツィ・ポトツキらは以前から反乱を計画していたが、コシチュシュコが計画に加わったことは彼らにとって何よりありがたいことだった。コシチュシュコは全ポーランドで人望が厚く広く人気があったからである。 1793年8月にコシチュシュコがライプツィヒに戻った際、彼は仲間たちに反乱決行を求められたが、三国を相手取った反乱は勝算が薄いと考え迷っていた。9月に彼は密かに国境を越えてポーランドに戻り、ユゼフ・ヴォジツキら意の通じた高級軍人たちに会った。ポーランドでの反乱計画の進捗が遅れていることを知ったコシチュシュコは決起の延期を決め、イタリアに旅立った。しかし、ポーランドでは彼の予想を上回る速度で状況が変化していた。ロシアとプロイセンの圧力でポーランド軍がさらに縮小されることになり、しかもこの軍縮でポーランド軍を離れた部隊がそのままロシア軍に編入されることになったのである。さらに1794年3月には、ワルシャワで反ロシア革命派の摘発が始まり、多くのポーランドの政治家や軍人が逮捕された。蜂起の前倒しを決断せざるを得なくなったコシチュシュコは急遽帰国し、1794年3月15日にクラクフに到着した。 1794年3月12日、第1ヴィエルコポルスカ国民騎兵旅団(1500人)長のアントニ・マダリンスキは復員命令を拒否し、オストロウェンカからクラクフに進軍した:181。これをきっかけに、ポーランド各地で反ロシア暴動が勃発した。クラクフに駐留していたロシア軍はマダリンスキ軍と対決するためにいったん撤退を命じられ、反ロシア軍は抵抗なくクラクフを奪うことに成功した。しかし、クラクフにいるロシア軍の武器を奪取するというコシチュシュコの当初の計画は潰れてしまった:181。
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