憲宗期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 22:12 UTC 版)
徳宗の跡を継いだ順宗は在位半年で死去、憲宗が継ぐ。 即位早々の806年、西川節度使(四川西部)の劉闢が勢力拡大を目指して東川(四川東部)を攻撃したので、これを討伐して劉闢を捕らえて斬刑に処した。これを手始めに夏綏節度留後の楊恵琳、浙江西道の鎮海軍節度使の李錡を討伐する。更に河朔三鎮をも討たんとして失敗に終わるが、淮南西道の呉元済を滅ぼす。 憲宗の強硬な対応に対して藩鎮側も朝廷に恭順な態度を取るようになり、平盧の李師道・成徳の王承宗は自ら領地の一部を返還し、横海軍の程権は二州全ての領地を返還して藩の歴史を自ら絶った。更に、平盧の返還の履行が遅れたことを名目として攻撃を掛け取り潰した。 河朔型藩鎮として長く続いた平盧が取り潰されたことで、魏博の田弘正は藩帥の職を返還して入朝する。憲宗は820年に宦官により殺されるが、その後、成徳・盧龍もまた朝廷へ藩帥の職を返還したため、河朔三鎮による独自の藩帥継承は終わった。
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