貴族院改革をめぐって
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「アーサー・バルフォア」の記事における「貴族院改革をめぐって」の解説
議会法案をめぐって自由党政権と保守党が緊迫する中の1910年5月6日のエドワード7世が崩御し、ジョージ5世が即位した。政界に「新王をいきなり政治危機に晒してはならない」という融和ムードが広まり、両党の会合が持たれるに至った。この際にロイド・ジョージはバルフォアに連立内閣を提唱した。バルフォアはこれに前向きだったが、自由党政権はアイルランド国民党との連携のためにアイルランド自治法案を出してくる可能性が高かったので、もし大連立など組んだら保守党は分裂するという意見が党内には多かった。1910年11月までには両党の交渉は決裂に終わった。 この決裂で議会法制定を目指すことにしたアスキス首相は、ジョージ5世から「総選挙を行って勝利した場合には貴族院改革法案に賛成する新貴族議員を大量に任命する」という確約を得て、11月26日にもこの年2度目の庶民院解散に打って出た。こうして行われた12月の総選挙(英語版)の結果は自由党272議席、保守党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席と前回総選挙とほとんど変わらないものだった。得票率で見ると保守党は自由党に優っていた。 しかしアスキス首相は1911年2月21日の新議会で自党と友党アイルランド国民党があわせて過半数を制したので貴族院改革の国民のコンセンサスは得たと力説し、議会法案を再度議会に提出してきた。法案は5月15日に庶民院を通過したが、貴族院は断固反対の姿勢を示した。これを見たアスキス首相は、もし貴族院がこの法案を通過させないなら国王大権によって貴族院改革に賛成する新貴族院議員を大量に任命する方針とそれについて国王の承諾を得ている旨を7月20日にバルフォアら保守党執行部に付きつけた。 これを受けてバルフォアは7月21日にもシャドー・キャビネット(影の内閣)に所属する保守党幹部を召集して対策を話し合った。バルフォアやランズダウン侯爵、カーゾン卿は「貴族の大量任命など行われたら世界中の文明国の笑い物になる」として譲歩するしかないと主張した。バルフォアの考えるところ、自由党系の新貴族が任命されて自由党が恒久的に貴族院多数派になることの方がはるかに危険な「革命」であり、それに比べれば拒否権が失われることぐらいはまだマシだった。だがハルズベリー卿(英語版)やセルボーン卿(英語版)、オースティン・チェンバレンらは徹底抗戦すべしと主張して譲らなかった。 保守党貴族院議員たちの間では政府の態度はハッタリの脅迫に過ぎないとして、徹底抗戦派の声の方が大きくなっていった。彼らは「ダイ・ハード(頑強な抵抗者)」と名乗るグループを形成して貴族院権限縮小反対運動を行った。このように公然と党首バルフォアの方針に背く者が増えていく中、バルフォアの党内における求心力の低下は避けられなかった。 アスキス内閣は新貴族院任命の方針を覆す意思を見せず、8月10日には議会法案の貴族院提出を強行し、その法案説明で「議会法を否決する投票は、すなわち多数の新貴族任命への賛成票ということになる」と明言してきた。バルフォアの息のかかった妥協派貴族院議員たちは当初棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が高いため、ついにこの法案賛成に回る決意を固めた。これにより議会法案は賛成131、反対114の僅差でなんとか貴族院を通過した。37人の保守党貴族院議員と2人の大主教、1人の主教が賛成票を投じていた これにより貴族院の権限は大幅に縮小され、さらに貴族院議員の新規叙任が制限されることになった。
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