貴族院子爵グループのリーダー
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「加納久宜」の記事における「貴族院子爵グループのリーダー」の解説
明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵を授けられた。 明治22年(1889年)、大日本帝国憲法の発布、議院法と貴族院令が公布されると、上院(貴族院)において有爵者の任務を研究する「子爵同志研鑽会」の発足にかかわった。明治23年(1890年)7月10日、子爵の互選により兄の種恭とともに帝国議会貴族院子爵議員に選出され、明治30年(1897年)7月10日まで務める。第1回議会(明治23年(1890年))では弁護士法委員、両院交渉事務規定特別委員に選出されている。第2回議会(明治24年(1891年))では予算委員(第二科 外務省・司法省)、帰化法案特別委員に選出されている。会派が形成される以前であったが、積極的に会合(「同士会」(加納有志会))を定期的(月2回)にもっている。その後、侯爵中山孝麿が中心となっているグループ(有志者会)と合併するがやがて脱退し、無所属となった。
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