貴族院保守党の分裂と議会法可決
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「議会法」の記事における「貴族院保守党の分裂と議会法可決」の解説
アスキスは自由党系貴族創家の上奏の準備を進めつつ、1911年7月18日にロイド・ジョージを保守党党首バルフォア、保守党貴族院院内総務ランズダウン侯爵の許に派遣し、国王から新貴族創家を行うことの承諾を得ている旨を彼らに通達した。 これを受けてバルフォアは7月21日にもシャドー・キャビネット(影の内閣)に所属する保守党幹部を召集して対策を話し合った。バルフォアやランズダウン侯爵、カーゾン卿は「貴族の大量任命など行われたら世界中の文明国の笑い物になる」として譲歩するしかないと主張した。バルフォアの考えるところ、自由党系の新貴族が任命されて自由党が恒久的に貴族院多数派になることの方がはるかに危険な「革命」であり、それに比べれば拒否権が失われるぐらいはまだマシだった。だがハルズベリー伯爵(英語版)やセルボーン伯爵(英語版)、ソールズベリー侯爵、オースティン・チェンバレン、エドワード・カーソン(英語版)らは徹底抗戦すべしと主張して譲らなかった。 保守党貴族院議員は新貴族創家をちらつかせる政府の態度はハッタリと見る者が多く、徹底抗戦派の方が多かった。彼らは「ダイ・ハード(頑強な抵抗者)」と名乗るグループを形成して議会法案反対運動を行った。 しかしアスキス内閣は新貴族創家の方針を覆す意思を見せず、8月10日には議会法案の貴族院提出を強行し、その法案説明で「議会法を否決する投票は、すなわち多数の新貴族任命への賛成票ということになる」と明言した。バルフォアの息のかかった妥協派貴族院議員たちは当初棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が高いため、ついに議会法案賛成に回る決意を固めた。これにより議会法案は賛成131、反対114の僅差でなんとか貴族院を通過した。37人の保守党貴族院議員と2人の大主教、1人の主教が賛成票を投じていた こうして議会法が成立したが、保守党内に根深い亀裂が生じた。議会法の貴族院可決があった8月10日夜の保守党社交界カールトン・クラブ(英語版)の席上では議会法案に賛成票を投じた貴族院議員たちに「恥を知れ」「裏切り者」「ユダ」といった罵倒が浴びせられた。またF.E.スミス(英語版)やオースティン・チェンバレンを中心に「B・M・G(バルフォアよ、去れ)」運動が開始された。求心力を落としたバルフォアは11月8日に保守党党首職を辞することとなった。
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