貴族院ホイッグ党の指導
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「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)」の記事における「貴族院ホイッグ党の指導」の解説
メルバーン子爵は、首相退任後の1842年に病により政界の第一線から退いた。以来ホイッグ党は、庶民院ホイッグをジョン・ラッセル卿が、貴族院ホイッグをランズダウン侯爵が指導するという両院別個の二党首体制に移行した。保守党の牙城である貴族院にあってランズダウン卿は院内に党派を超えた幅広い人脈を構築し、その後のホイッグ党政権の大きな柱となる。ただしジョン・ラッセル卿が改革派だったのに対して、ランズダウン侯爵は改革に乗り気ではなく、しばしばジョン・ラッセル卿を掣肘した。 メルバーン子爵政権後に政権を担当していた保守党政権の第二次サー・ロバート・ピール准男爵内閣は、1845年末に穀物法廃止をめぐって自由貿易派と保護貿易派に分裂した。この際にピールが総辞職を表明し、ホイッグのジョン・ラッセル卿に大命が下ったが、穀物法廃止にも政権奪還にも慎重だったランズダウン侯爵が積極的に協力せず、その結果、ジョン・ラッセル卿は組閣を断念することになり、ピールが再任している。
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