貴族院の有力会派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/24 14:40 UTC 版)
明治25年5月に谷が第1次松方内閣へ選挙干渉への抗議を書いた建議案を提出し貴族院で可決、同じく干渉を非難した衆議院の問責決議案可決も相まって内閣に大打撃を与えた。民法と商法の施行延期も実現させ、政府や衆議院と対等な地位に立った。懇話会は続く第2次伊藤内閣とは外交問題で対立し対外硬を唱え大隈重信が率いる立憲改進党に賛成、以後も大隈の政党(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)に好意的な反面伊藤との対立姿勢を継続、日清戦争後の戦後財政を軍拡反対の立場から三曜会と共に反対した。明治29年(1896年)に第2次伊藤内閣総辞職後に成立した大隈と松方正義の連立政権(第2次松方内閣)は支持に回り、谷が貴族院予算委員に加わり貴族院議長に就任した近衛と並び政権を支え、軍拡を志向する政府と予算の対立はあったが新聞紙条例の緩和に尽力、懇話会は三曜会と共に貴族院の有力会派となった。この時が、懇話会の最盛期だった。 ところが、この頃から懇話会の衰退が始まる。当初弱小会派だった研究会が多くの議員を引き入れる工作を展開、明治25年に発足した選挙団体・尚友会を拠点に選挙の組織票を集め、会員統制を通じて組織体制を固め、積極的に会員を勧誘し急成長していったのである。明治30年(1897年)に貴族院の有爵互選議員総改選が行われると、懇話会・三曜会が研究会に惨敗する結果となっただけでなく、有爵議員をほとんど尚友会に取られそこからの引き抜きが出来なくなったことも明らかになり、両会派は一転して生き残りを模索する立場に追いやられてしまった。
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