貴族院における子爵とは? わかりやすく解説

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貴族院における子爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 15:57 UTC 版)

子爵」の記事における「貴族院における子爵」の解説

1889年明治22年)の貴族院令により貴族院議員種別として華族議員設けられた(ほかに皇族議員勅任議員がある)。華族議員公侯爵と伯爵以下で選出方法待遇異なり公侯爵が30歳達すれば自動的に終身貴族院議員列するのに対し伯爵以下は同爵者の間の連記記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年貴族院議員となった。この選挙選挙権成年被選挙権30歳以上だった。選挙任期存在する伯爵以下議員政治的結束固める必要があり、公侯議員より政治的活動活発だった。また公侯議員無給だったため、貴族院への出席重んじない者が多かったが、伯爵以下議員議員歳費支給されたため、議席希望する者が多かった。なお議員歳費当初800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる。特に子爵場合は旧公家華族だけでなく旧大名華族も小大名だった家がほとんどなので経済状態芳しくないことが多く議席欲する者が多かった研究会幹部だった貴族院議員酒井忠亮子爵も「大学卒業して傾いていた家運挽回するのにどうし様かと思った安月給取りはやっていけない。結局早く貴族院入って研究会幹部になる外はないと思った」と述懐している。そのため子爵たちの選挙戦激しいものがあった。 伯爵以下議員それぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員選出されるよう議席数が配分されており、当初伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵急増)に対応してしばしば貴族院令改正案議会提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年議会提出され第一次貴族院令改正案伯爵17人、子爵70人、男爵56人)だったが、日露戦争勲功急増していた男爵の数が反映されていない男爵議員反発し貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣1909年議会提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるのだったが、その比率伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員増やすと衆貴両院議員数の均衡崩れ、また貴族院内の華族議員勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦勲功男爵位が増加した後の1918年寺内正毅内閣下)には伯爵20人、子爵男爵73以内とする第三次改正案議会提出された。さらに1925年加藤高明内閣下の第四次改正では子爵議員の定数を4名削減された。これにより最終的に子爵議員の数は66となった貴族院内には爵位ごとに会派形成されており、子爵議員たちは「研究会」という会派形成した。「研究会」には勅選議員多数参加し院内における最大会派となり、1920年代大きな力を持った。特に華族議員制度解体目指していた加藤高明内閣による貴族院改革案を研究会は常に反対続けた

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