加納久宜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 06:02 UTC 版)
加納 久宜(かのう ひさよし、嘉永元年3月19日(1848年4月22日) - 大正8年(1919年)2月26日)は、幕末の上総国一宮藩主、明治・大正時代の政治家。帝国議会、地方行政はもとより、教育、司法、農業などの産業振興、産業組合運動、地方改良運動、赤十字、競馬界など、多方面で活躍し[2]、「地方自治の恩人」「日本農政の父」「産業組合の育ての親」などと称賛され慕われた。
注釈
- ^ 東京に家族を残して公務を行ってきた加納としては大森の自宅で家族と過ごすことを想定して慫慂に応じたものであったが、司法当局としては従五位の加納を東京に置けば法律の経験知識がないにもかかわらず筆頭判事に立てなければならないため、熊谷裁判所のポストをあてがったものである。加納は手記でこの経緯を振り返り、「生涯で一番不愉快千万な時代だった」としている。熊本裁判所に1年勤務した後司法大臣大木喬任に辞表を提出し、驚いた大木は翌月に加納を大審院検事に起用している[3]。
- ^ なお、鹿児島赴任中は大森の私邸を尾崎行雄に貸していた[3]。
- ^ 当初薩摩米は大阪の市場で「劣悪米」として扱われていたが、加納が指導した農業改良による品質向上により全国第5位に評価されるまでになった[3]。
- ^ 例えば、視察で植林の必要性に気づいた喜界島に対して私費で2万本の松苗を贈呈している。加納は最終的に2万円の借金を負っている[3]。
- ^ 鹿児島県では次の知事の就任は明治33年9月となっている(http://www.pref.kagoshima.jp/chiji/rekidai/index.html)
出典
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
- ^ a b “加納 久宜とは”. コトバンク. 2020年12月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 高崎哲郎 (2014). 国際人・加納久朗の生涯. 鹿島出版. pp. 41-63
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』40頁。
- ^ 『官報』第3167号、明治27年1月22日。
- ^ 『官報』第5158号、明治33年9月10日。
- ^ 『官報』第6058号、明治36年9月9日。
- ^ 『学校法人日本体育会・日本体育大学八十年史』昭和48年12月15日発行
- ^ “加納久宜・小原鐵五郎”. www.jsbank.co.jp. 城南信用金庫. 2020年12月31日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、13頁。
- ^ 『官報』第1972号、大正8年3月3日。
- ^ 鹿児島県. “加納久宜知事没後100年慰霊式典を開催します”. 株式会社インフォマート. 2020年12月31日閲覧。
- ^ “最後の一宮藩主・加納久宜 没後100年記念式典にひ孫の麻生副総理出席 /千葉”. Mainichi Daily News. (2019年11月8日) 2020年12月31日閲覧。
- ^ 筑後三池藩第6代藩主立花種周の五男。陸奥国下手渡藩第3代藩主立花種恭は兄。
- ^ 日本住宅公団初代総裁、千葉県知事
- ^ 農学者、キリスト教牧師
- ^ 野田勢次郎・八重子夫妻の養子である野田健三郎の長男
- ^ 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
- ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
固有名詞の分類
- 加納久宜のページへのリンク