一宮藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 22:35 UTC 版)
慶応2年(1866年)、上総一宮藩主・加納久恒が急死したのを受けて急遽養子となり、19歳で藩主となる。新政府軍は主にイギリスから、列藩同盟軍は主にプロイセンから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていたこともあり、国入り早々近習の侍を集めてフランス式操練を行った。戊辰戦争当初は藩兵を率いて海路出陣するも、遠州灘で時化に遭遇。伊豆下田から陸路京を目指すが鳥羽・伏見の戦いには間に合わず、名古屋で将軍慶喜江戸帰還の報を受けて撤退。明治元年(1868年)に新政府軍に恭順した。 明治2年(1869年)には関東の列藩の中でも率先して版籍奉還の県議を太政官代に奉呈した。奉還後は一宮藩知事となり、廃藩置県で免職となる。
※この「一宮藩主」の解説は、「加納久宜」の解説の一部です。
「一宮藩主」を含む「加納久宜」の記事については、「加納久宜」の概要を参照ください。
- 一宮藩主のページへのリンク