一宮町長、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 22:35 UTC 版)
明治45年(1912年)に清浦内閣成立の折には、農商務省大臣就任が要望されたが、地元一宮町民の熱望により一宮町長に就任する。その任期中、特に農業畜産の振興、耕地整理による基盤整備、名士の別荘招致、海水浴場創設と植林、青年会等各種団体の育成、一宮女学校開設、他多数の事業を力強く推進した。 大正6年(1917年)、町長退任後も名誉町長格で毎日役場に出勤していた。同年、一宮町の農業青年70人を率いた大視察団とともに鹿児島県を訪れる。鹿児島入りしたときは、駅頭黒山の歓迎陣で埋まった。最初に発した言葉は「昔植えたミカンを早く見たい」であった。 大正8年(1919年)2月26日、避寒療養先の大分県別府温泉で亡くなる。享年72(満70歳没)。「地方自治の恩人 加納子逝く 一昨夜別府で 享年七十有四」と『東京日日新聞』(2月28日)は報じている。葬儀は3月6日、東京谷中斎場で行われ、加納家墓地に葬られる。遺言は「一にも公益事業、二にも公益事業、ただ公益事業に尽くせ」。晩年も知事として赴任した鹿児島県のことを気にかけており、「もし我輩が亡くなっても鹿児島のことで話があったら冥土に電話せい」が家庭での口癖であったという。同年3月1日、長年の産業振興への貢献により藍綬褒章を受章した。
※この「一宮町長、晩年」の解説は、「加納久宜」の解説の一部です。
「一宮町長、晩年」を含む「加納久宜」の記事については、「加納久宜」の概要を参照ください。
- 一宮町長、晩年のページへのリンク