各界での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 22:35 UTC 版)
鹿児島県知事を退任すると、東京都入新井村に居住した。ここでは、学務委員として地域の教育振興にも努め、明治35年(1902年)7月、英国の協同組合を見本に、大森山王の自邸を事務所にして、妻と2人で手作りで帳簿を揃えて、都内最古の入新井信用組合(現:城南信用金庫入新井支店)を設立し、荒廃していた地域を模範村にかえていき、村民から慕われる。 同時期の明治35年(1902年)、鹿児島県での実績から全国農事会幹事長に就任し、農業生産の拡大に尽力する。その後、帝国農会初代会長に就任するなど、全国の農政にも深く関与する。一方で、入新井信用組合の運営者として全国に信用組合の模範を示し、全国農事会の幹事長の立場でも産業組合運動の普及宣伝にも情熱を注ぎ、全国を遊説し、その普及活動に努める。 明治38年(1905年)には、産業組合運動の振興のため、入新井信用組合と全国農事会の主催により、全国産業組合役員協議会(後の全国産業組合大会)を開催し、自ら座長を務める。同年、大日本産業組合中央会副会頭に就任する(会頭は平田東助)。こうした活動で「産業組合の育ての親」と称される。 明治37年(1904年)、日本体育会(体操学校・現日本体育大学)会長(校長)として荏原中学(現在の日体荏原高等学校)を設立する。同年7月10日、再度、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任する。 明治39年(1906年)、鹿児島県知事時代から馬匹改良に意欲を持っていたこともあり、安田伊左衛門などとともに東京競馬会の発足に尽力する。日本人による初の馬券付き競馬を、東京大森の池上競馬場にて開催する。明治43年(1910年)には、東京競馬会・日本競馬会・京浜競馬倶楽部・東京ジョッケー倶楽部を統合して東京競馬倶楽部が設立され、初代会長に就任する。
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