各町の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 06:12 UTC 版)
江戸時代に大火があり大きな被害があった。いわゆる富田一色大火である。火災対策として広小路大通りを創設して町割りで広小路町自治会を創設した。町割りでつけられた各町名は富田一色地区の自治会や学校内での町別児童会の名称として使用されていた。東から西へ行く南北の20通りと各19自治会があり、北から南へ行く東西の通りは通称西横町通り・中横町通り・浜横町通りの3つの通りがある。大火復興後の富田一色は北は北町から、南は南町か境町の小集落であった。1714年(正徳4年)に中町・北條・南條の名前が記されて、続いて本町・寺町・八間家・山ノ神町が現れる。八間家は現在の八軒町であるが、山ノ神町は現在の広小路であって、広小路と云う名称は、40年ほど後の1770年(明和7年)から使用された。 1775年(安政4年)に七軒町が創設された。 1778年(天明7年)に港町が創設された。 1822年(文政11年)に大黒町と戎町(蛭子町自治会)が創設された。 1834年(天保5年)に十軒町が創設されて、翌年の1835年(天保6年)に布袋町と改称する。 1850年(嘉永3年)南條新長屋が創設されて、1869年(明治2年)に弁天町に改称する。 1901年(明治34年)に江戸町が創設された。 1914年(大正3年)に豊富町が形成される。 1928年(昭和3年)旭町が形成された。 明治初期まで、豊富町や江戸町の中の横町の東は、文蔵の花畑と云って、当時布袋町の中の横町の西側にあった小川文蔵(質屋)の花畑であった。一色の南端、今の太子堂一帯は富田一色の火葬場、すなわち三昧で、墓などがたくさんあって、非常に淋しく気味と悪い所であった。現在でも死者の霊の祟りを恐れて、松の大樹が刈られずに道路に存在する、その南側は、一色の塩役運河の堀川に続く掘り割りで、富田との境界になっていて、一色から富田で行くには、西の横町に続く細い橋を渡っていた。橋のたもとには石灰小屋があり、渡った所には富田に進栄軒があった。江戸時代には、朝明郡所属の富田六郷富田一色村で桑名藩領であった。塩役運河沿いに富田一色港が築かれて廻船問屋も多かった。東海道五十三次(東海道富田の立場)付近で富田一色は八風街道に起点で、陸の交通と海の交通の便もよかった。
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