富田一色地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 04:03 UTC 版)
富田一色は、お盆の3日間に、毎晩各町各自治会の輪番で大きい太鼓で拍子をとって踊りが開催されていた。踊りの歌詞の中にこんな歌がある。 『盆おどり歌 一色や在郷でも、西や堀川じゃエー さいろ船でも ヤーレーノー 走り込む ヨイヨイヨーイ ヨイヤサノヤ 歌の意味は、富田一色は都会から遠く離れたい中ではあるけれど、西にはこんな立派な堀川運河がありますよ。秋刀魚を捕る大きな船でも、らくらくと通る事ができますよ。』と歌い踊って、塩役運河を他の地区の住民に自慢していた。 1917年(大正6年)に東洋紡績富田工場の操業によって、四日市港の本船から綿花を大量に積んだ『団平船』の往来が激しかった。団平船→荷物を運ぶ船である。富田一色大黒町の西側にガンガン堤側に荷揚げ場があって、綿花を運び込んだ。1944年(昭和19年)12月7日に東海地方を中心とする巨大地震の東南海地震があり、戦後は富田一色の土地が段々を低くなって、貨物船が海運橋の下の塩役運河を通過できなくなった。1945年(昭和20年)頃まで、塩役運河の水質は美しく『はぜ・鮒・しじみ』などがいて、魚釣りで賑わったが、今は汚水が流されて昔の面影は、全く見られない。段々と塩役運河が汚染されて、川底は泥に変化した。魚も貝も住めなくなって死んでしまった。生物ゼロの塩役運河は干潮の時には、ガスが大量発生して悪臭がするようになり、富田一色と東富田の住民に水質が汚染される公害が発生して塩役運河周辺の住民は困り、川底の泥を取り除き、豊富川の清掃を徹底したが良くならず、塩役運河が不要となった。
※この「富田一色地区」の解説は、「塩役運河」の解説の一部です。
「富田一色地区」を含む「塩役運河」の記事については、「塩役運河」の概要を参照ください。
- 富田一色地区のページへのリンク