平治郎橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:42 UTC 版)
富田一色の地形は、西に松原地区があり富田一色地区から松原地区に行くは運河(塩役運河)を渡らなければならなかった。北側には富洲原港(富田一色漁港)と東側には伊勢湾の海水浴場の砂浜がある。南側のみ陸続きであり。西側は運河、北側は漁港で、東側は砂浜で、南側に繋がっているのが現在の東富田町である。半島型の漁師町であり江戸時代の桑名藩領朝明郡所属の富田六郷時代に下町として街作りが行われた密集地であった。富洲原地区は中央を南北に運河が流れている地形で富田一色地区と松原地区が遮断されている。富田一色地区民が運河である東西の堀川を渡って国鉄富田駅へ向かう際、富田一色北側の海運橋しかなく、南部には橋が無いため南部の人は富田駅に行くには、海運橋まで迂回してまず現在の松原西元町商店街に行き東洋紡績富田工場を通る遠回りだった。 そこで伊藤平治郎は1899年(明治32年)交通上の不便解消と父の還暦祝いに永遠に富田一色地区を繁栄させる事業として、富田一色の南部から富田の代官町の中間を通って富田駅に通ずる橋の新設を決意した。経費は当時の650円で、日露戦争直後に新しく予算を増額して1960円で幅が2間で、長さが8間であった。富田一色北部の商店は得意客が減少すると言って反対した。1908年(明治41年)に、近回りとなる南寄りに平治郎橋を私財で建設した。 地元の富田一色地区の住民の要望で富田一色豊富町(南側)に架けられた近回りの橋は伊藤平治郎にちなんで「平治郎橋」と呼ばれた。現在、平成時代に建設されて架けられているのは3代目の橋で、四日市市が計画した治水事業と景観事業の公共工事で塩役運河は埋め立てられて水と緑のせせらぎ広場となっている。
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