富洲原の政治家
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1916年(大正5年)に三重紡績富田工場を建設した。後に東洋紡績富田工場となった大工場で大地主で有力者の2代目平田佐次郎を説得して紡績工場を誘致した。2代目平田佐次郎と共に伊藤平治郎が紡績産業都市の三重郡富洲原町の建設をリードした。東洋紡績富田工場と平田紡績富洲原工場の2大紡績会社による工業化政策をとった。 伊藤平治郎と水産功労者の生川平三郎と2代目の平田佐次郎の3人を中心とする三重郡富洲原町の町政が行われた。 伊藤平治郎は富田一色地区及び松原地区の担当として、東洋紡績富田工場の誘致による松原地区の工業化政策と商業化政策を行った。 2代目平田佐次郎は富田一色地区と天ヶ須賀地区を担当して平田紡績による製網業の工業化政策で富田一色地区と天ヶ須賀地区の橋渡しとなった。 生川平三郎は富田一色区長として水産業を中心とする富田一色地区の担当と、隣の三重郡富田町と富洲原町との政治経済関係を担当した。 富洲原町長より伊藤平治郎や生川平三郎などの富洲原町会議員の権限と大地主の平田紡績家の力が強かった。富洲原町長の安達松治郎は形式のみの名誉職であり、富洲原町政の実権を握っていたのは富洲原町会議員と各自治会長と平田家であった。富洲原町は三重県で最初の近代化や工業化に成功した地域となった。三重郡富洲原町は大正時代に東洋紡績富田工場と平田紡績の建設で三重県で最初に工業化を達成した。次いで東洋紡績(東洋紡績楠工場)と東亜紡織(東亜紡織楠工場)の建設で三重郡楠町が昭和時代初期に工業化を達成した。
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富洲原の政治家
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富洲原町(現在の富洲原地区)発展のために平田佐矩は、教育への貢献として富洲原小学校の(奉安殿の建立・平田紡績株式会社と平田佐矩個人による寄付で講堂の建設)をして、富洲原地域への寄贈をした。また宗教や文化保護策として富田一色地区の富田一色飛鳥神社と、天ヶ須賀地区の天ヶ須賀住吉神社と、松原地区の聖武天皇社など富洲原の神社や仏閣に多額の寄付をした。松原地区に東洋紡績富田工場が誘致されると富洲原の商業化のために東洋町商店街を中心とする富洲原商工会の副会長に就任した。 富洲原町会議員に推薦されて四日市市と三重郡富洲原町の市町村合併を推進させる交渉役となった。1941年(昭和16年)6月11日に三重郡富洲原町が四日市市に合併した際に合併条件として「富洲原地区出身の市会議員を3議席確保する」とした条件があり、平田佐矩(平田紡績社長から後に四日市市長となった)・片岡恒一(三重県議会議員から衆議院議員となった)・早川政蔵(1941年(昭和16年)から1955年(昭和30年)の期間に四日市市議会議員に在任していた)が富洲原地区選出の四日市市会議員となった。その3名の市会議員として富田一色出身の片岡恒一元衆議院議員と天ヵ須賀出身の早川政蔵元富洲原町会議員(三重郡富洲原町議会の議長)と共に四日市市会議員となる。四日市市名誉職参事会員となる。1943年(昭和18年)10月23日に、四日市市の役職を辞職する。
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