富洲原地区
富洲原
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富州原は1966年(昭和41年)からの町名。もとは大字松原・大字富田一色・大字東富田の各一部。旧自治体の富洲原町と地区名の富洲原⇒住所名の富州原と呼称を区別した。富田一色・天ヶ須賀は漁業が盛んだった。富洲原港で捕獲される主な魚介類は鰯・ヒシコ・富田の焼き蛤。丸干・煮干・たづくりなど水産加工の従事者も増加する。明治期には漁業戸数が217戸・漁業人数が1120人・水産戸数が34戸・水産業従事者が194人。漁業の発達によって魚問屋や行商人の増加した。鰹節産業が発達して鰹節問屋が12軒・鰹節行商人が約100人となる。
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富洲原(滋賀県間の道路網としての歴史)
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「八風街道」の記事における「富洲原(滋賀県間の道路網としての歴史)」の解説
八風街道の歴史はいつ頃この道路が近江国(滋賀県)まで開通したか不明だが、四日市港を築港した稲葉三右衛門や保々地区の天春文衛衆議院議員が構想した明治時代の勢江鉄道構想から昭和時代の三岐鉄道を建設へと発展する。1756年頃(江戸時代中期)に富田一色村 - 松原西町間の海運橋がかけられた時に、富洲原地区の富田一色村から保々地区の小牧村までの道路が整備されたと記述されている。江戸時代の享保期 - 幕末期の八風道路網は、大矢知村に忍藩の大矢知陣屋がああたため、年貢米の運搬に使用されて馬や荷物車の往来が激しかった。また富田一色には塩役運河の陣屋河岸があって、ここから年貢米や諸物資が日本各地へ初代平田佐次郎などが海上輸送したため、八風街道は陸上輸送の要路となっていた。4代目伊藤平治郎は富田一色村民の通行を便利にして、米などの運搬を速やかにするため、八風道路の改修に着手した。改修区間は、交通量の多い大矢知から富田一色港に至る、20余町(約2.4km)の距離で、八風街道の改修工事には多額に費用を費やした。平治郎は努力して私財を投入して沿道の田畑を買収して、八風街道の改修工事を推進した。1838年(天保9年)8月ようやく八風街道の改修工事が完了した。総出費は136両2分であった。八風街道の改修の功績で、4代目伊藤平治郎は、翌年の1839年(天保10年)5月に郷士格を賜った。江戸時代の旧道は曲がりくねった道筋であったが、昭和20年代に道路の付け替えが行われて、道幅の広い現在の八風道路である三重県道26号四日市多度線となった。
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