富田一色村惣村地所訴訟訴訟事件
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「平田佐次郎 (初代)」の記事における「富田一色村惣村地所訴訟訴訟事件」の解説
富田一色村の11年間にわたる「富田一色村惣村地所訴訟訴訟事件」が発生して、佐次郎は富田一色村惣村地所訴訟訴訟事件に深く関係があった。初代平田佐次郎は苦心を持ち、事件解決のための努力があった。富田一色村は江戸時代の旧藩(桑名藩)時代から「一色惣持地所」があったが、富田一色村民の多くが漁業に従事していたため耕作・栽培などの農業は近隣の豊田村・高松村・天ヶ須賀村・南北福崎村の小作民に委任して、上納するだけの収穫がないときには幾分かの補助米を他村の小作民に渡していた。漁業の町である富田一色村民は隣村の小作人に委任していた。 しかし明治維新後廃藩置県となり、1875年(明治8年)地租改正(地券交付)の際に、富田一色村と小作人らとの間に所有地論が起こり、争論に発展して他村との間に田んぼの土地問題がおきる。富田一色村と高松村・豊田村など現在の川越町の村々の土地問題である。江戸時代に富田一色村が川越町の他村に貸した田んぼや土地の返還を富田一色村が求めたが川越町の村々が応じなかったため問題になった。豊田村・高松村・天ヶ須賀村・南北福崎村の小作人の申し立てての内容は富田一色の歴史は漁業地に由来して農業を営む者はほとんどなくて農民はいないで富田一色村民に田畑は必要がないとするものであった。 この問題解決のために、富田一色村は代表者として名望家の伊藤平治郎(富田一色伊藤家当主)・鈴木仁平(富田一色鈴木家出身)・小川文作(富田一色小川家出身)・鈴木佐平治(富田一色鈴木家出身)・平田佐次郎(富洲原の富田一色の平田紡績家当主)の5人を選出した。両者が原告・被告となって四日市・安濃津・名古屋の地方裁判所に出廷して度々判決を仰ぐものの勝敗が着かず、富田一色村側は東京大審院に出訴して勝訴した。富田一色村側は示談による解決を図るべく努力した。 一件落着となったものの、小作側は上告に向けて画策した。鈴木佐平治・小川文作は離れていき、残された佐次郎は天春文治郎の協力を得ながら多くの私財や心労を費やした。この結果、1886年(明治19年)6月に富田一色村側の主張通り、富田一色村側となり、11年間の争論に決着がついた。佐次郎は明治時代の民事訴訟法を学んだ。結果として、東京の裁判所で平田佐次郎が代表者として勝訴する。
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