富田信高の時代
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慶長13年(1608年)9月15日、伊勢津藩5万石の藩主だった富田信高が徳川秀忠から宇和郡10万1,900石を与えられて板島丸串城主として入ったことにより、宇和島藩が立藩する(ただし、富田信高の時代でなく伊達秀宗の入部をもって藩の始まりとする説もある)。 富田信高の正室は宇喜多忠家の娘(直家の姪・秀家の従妹)である。この正室は、関ヶ原合戦で毛利秀元軍相手に奮戦して敵兵数名を自ら突き伏せたと伝わる女武者で有名である。ところがこの正室の兄とも弟とも伝わる坂崎直盛が、甥の宇喜多左門と対立して事件を起こした。発端は、直盛には寵愛していた美童がいたが、この美童が左門と密通したため直盛が激怒して家臣に美童を斬らせたのだが、左門がこの家臣を斬って逐電し、叔母にあたる信高正室を頼って、当時は津藩主であった信高に庇護されたことに始まる。これを聞いた直盛は信高に左門を差し出すように求めたが、信高がとぼけたために直盛は激怒して、武力衝突寸前にまで至った。幸い家臣の諫言があって止まるが、直盛は大御所家康と将軍秀忠に訴えて左門の引渡しを求める始末だった。左門は信高の下を辞去して肥後熊本藩主加藤清正、日向延岡藩主高橋元種の下に身を寄せた。この際に信高正室は延岡にいる左門に300石の米を送ったが、左門の家臣で行動をともにしていた篠原某が裏切り、信高正室が左門に宛てた書状を盗んで直盛に帰参を願い、直盛はこの書状を証拠にして再度、家康と秀忠に訴え出た。 慶長18年(1613年)10月8日、家康・秀忠同席の前で直盛と信高・元種は対決し、直盛は勝訴した。左門隠匿が勝訴の原因になったとされる。信高・元種は改易となり、信高は奥州磐城平藩主鳥居忠政預かりとされ、伊予に帰国することもなく配所に向かわされた。騒動の原因となった左門は獄死したとも斬殺されたともいわれる。 富田家の改易に関しては大久保長安事件による連座、宇和島の郷土史料では富田家の塩成掘切工事による不正によるものとする説があるが、前者はともかく後者はかなり疑わしい説とされている。 富田家改易により宇和島は幕府直轄領となり、幕府代官として藤堂良勝が入った。富田家中では宇和島を退去する際に年貢未徴収のために困っていたが、蔵米3000俵を良勝が貸し与えて残らず退去させた。信高は寛永10年(1633年)に小名浜(現在の福島県いわき市)において死去した。信高の長男知幸が水戸藩士として、次男知儀が7,000石の幕府旗本として存続した。 宇和島市内における富田家ゆかりのものとして佐伯町と佐伯橋があり、これは富田家家老の佐伯権之助の屋敷があったことからこの町名と橋の名がつけられ、また信高正室の肖像画が宇和島市大宮町(旧北町)の真宗大谷派最勝山立正寺(瓦寺)に所蔵されている。なお、この立正寺は南予最初の瓦葺きの寺院であったと伝わる。
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