富田信高の時代とは? わかりやすく解説

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富田信高の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 05:34 UTC 版)

宇和島藩」の記事における「富田信高の時代」の解説

慶長13年1608年9月15日伊勢津藩5万石の藩主だった富田信高徳川秀忠から宇和郡10万1,900石を与えられ板島丸串城主として入ったことにより、宇和島藩立藩する(ただし、富田信高の時代でなく伊達秀宗入部をもって藩の始まりとする説もある)。 富田信高正室宇喜多忠家の娘(直家の姪・秀家の従妹)である。この正室は、関ヶ原合戦毛利秀元相手奮戦して敵兵数名を自ら突き伏せたと伝わる女武者で有名である。ところがこの正室の兄とも弟とも伝わる坂崎直盛が、甥の宇喜多左門対立して事件起こした発端は、直盛には寵愛していた美童がいたが、この美童が左門密通したため直盛が激怒して家臣美童を斬らせたのだが、左門がこの家臣を斬って逐電し叔母にあたる信高正室を頼って当時津藩であった信高に庇護されたことに始まる。これを聞いた直盛は信高に左門差し出すように求めたが、信高がとぼけたために直盛は激怒して武力衝突寸前にまで至った。幸い家臣諫言があって止まるが、直盛は大御所家康将軍秀忠訴えて左門引渡し求め始末だった。左門は信高の下を辞去し肥後熊本藩主加藤清正日向延岡藩高橋元種の下に身を寄せたこの際に信高正室は延岡にいる左門300石の米を送ったが、左門家臣行動をともにしていた篠原某が裏切り、信高正室が左門宛てた書状盗んで直盛に帰参願い、直盛はこの書状証拠にして再度家康秀忠訴え出た慶長18年1613年10月8日家康秀忠同席の前で直盛と信高・元種対決し、直盛は勝訴した。左門隠匿勝訴原因になったとされる。信高・元種改易となり、信高は奥州磐城平藩鳥居忠政預かりとされ、伊予帰国するともなく配所に向かわされた。騒動原因となった左門獄死したとも斬殺されたともいわれる富田家改易に関して大久保長安事件による連座宇和島郷土史料では富田家塩成掘切工事による不正によるものとする説があるが、前者はともかく後者はかなり疑わしい説とされている。 富田家改易により宇和島幕府直轄領となり、幕府代官として藤堂良勝入った富田家中では宇和島退去する際に年貢徴収のために困っていたが、蔵米3000俵を良勝が貸し与えて残らず退去させた。信高は寛永10年1633年)に小名浜現在の福島県いわき市)において死去した。信高の長男知幸水戸藩士として、次男知儀が7,000石の幕府旗本として存続した。 宇和島市内における富田家ゆかりのものとして佐伯町佐伯があり、これは富田家家老佐伯之助の屋敷があったことからこの町名の名がつけられ、また信高正室の肖像画宇和島市大宮町(旧北町)の真宗大谷派最勝山立正寺(瓦寺)に所蔵されている。なお、この立正寺南予最初瓦葺き寺院であったと伝わる。

※この「富田信高の時代」の解説は、「宇和島藩」の解説の一部です。
「富田信高の時代」を含む「宇和島藩」の記事については、「宇和島藩」の概要を参照ください。

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