富田メモの発見とは? わかりやすく解説

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富田メモの発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 05:15 UTC 版)

A級戦犯合祀問題」の記事における「富田メモの発見」の解説

富田メモ」も参照 2006年平成18年7月20日に、1988年昭和63年当時宮内庁長官であった富田朝彦昭和天皇の発言会話メモしていた手帳に、昭和天皇A級戦犯松岡洋右白鳥敏夫合祀不快感をもっていたことを示す発言メモしたものが残されていた、と日本経済新聞1面報道された。このメモ富田メモ)は、富田朝彦遺族保管していた手帳貼り付けてあったものである。以下、そのメモ記述一部を示す。 私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波慎重に対処してくれたと聞いた松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と松平平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らず思っている だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ 「松岡」とは、松岡洋右外務大臣、「白取」とは、白鳥敏夫元駐イタリア大使、「筑波」とは、靖国神社宮司1966年昭和41年)に旧厚生省からA級戦犯祭神名票を受け取りながら合祀しなかった筑波藤麿を指すと推察される。1965年6月30日靖国神社総代会合祀する方針決定されたが、合祀時期宮司一任された。合祀強行派中には、「戦争責任者として合祀しないとなると神社責任は重いぞ」と主張する者[誰?]がいたが、当時宮司であった筑波藤麿は「ご方針に従う。時期慎重に考慮したい」と引き取り結局任期中合祀を行わなかった。「筑波慎重に対処してくれた」とは、このことを指すと考えられる。「松平」とは終戦直後最後宮内大臣であった松平慶民、「松平の子」とは慶民の長男1978年A級戦犯合祀決断した当時靖国神社宮司松平永芳を指すと推察される。

※この「富田メモの発見」の解説は、「A級戦犯合祀問題」の解説の一部です。
「富田メモの発見」を含む「A級戦犯合祀問題」の記事については、「A級戦犯合祀問題」の概要を参照ください。

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