各界の反応とルターの対応
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「95か条の論題」の記事における「各界の反応とルターの対応」の解説
この結果として、ルターの言説は大反響を巻き起こした。しかし、純粋に学問的な討論を呼びかけたに過ぎないルターにとっては、これは予想外のことだった。しかし肝心の神学者たちからはほとんど無視された格好になり、ルターが望んだ学術的討論は実現しなかった。 ルターが名指しで批判したドミニコ修道会だけは敏感に反応した。ルターには関係無いのだが、ドミニコ修道会には以前から敵がいて、自分たちは攻撃を受けて迫害されていると考えていた。そこへ新たにルターという敵が増えたという格好になっており、深刻な事態だと受け止めたのである。 異端者は三週間のうちに火に投げ込まれて、入浴用の帽子を被ってあの世行きだ。 — ヨハン・テッツェル、ルターの提題について 1518年1月20日、オーデル川のフランクフルトで開かれた修道士の総会で、ドミニコ修道会士で異端審問官でもあるヨハン・テッツェルがルターに反発して贖宥を認める論文を発表し、ルターを火刑にすべきだと気勢をあげた。 一方のアウグスティヌス修道会では4月25日の総会でルターが演説した。この総会にはブツァーやブレンツ(ドイツ語版)も出席しており、ルターに感銘を受けた彼らはのちに宗教改革の指導者となる。 当時の人々は、これを単なるドミニコ修道会とアウグスティヌス修道会のいつもの小競り合いだとみなして、面白おかしく眺めていた。修道会そのものをよく思わない人々は、「修道会同士の喧嘩」を煽り立て、嘲笑し、対立の火が燃え上がるのを愉快に見物していた。 ―たぶんまだ何にも御存知ないでしょうか。ザクセンのヴィッテンベルクで一派が教皇の権威に反抗しようとしていますし、他の一派は教皇の贖宥を弁護しています。修道士たちが両陣営をあげて戦うようにさせています。両方の確乎たる修道会長は熱く、激しく、軽率に、どなったり、吠えたり、涙を流したり、天に向かって訴えたりしていますし、そのほかに両陣営ともに、何か書こうと思い、図書館に走りこんでいく者がいます。人々は提題や反対提題や、推論や条項を売りさばいています。……私は、彼らがたがいに殺しあってしまうだろうと思います。 — 人文学者のウルリヒ・フォン・フッテン、友人に宛てた書簡の中で 一件が妬みと悪意から起ったというのは、ほぼ確かなことでしょう。アウグスティヌス会士はドミニコ会士を妬んでおり、ドミニコ会士はアウグスティヌス会士を妬んでおり、両者はフランシスコ会士を妬んでいるのです。 — アントワープの人文学者、スペインの人文学者に宛てた書簡の中で この間、肝心の神学者たちからほとんど反応がなかったことに立腹したルターは、贖宥状の売り手を追撃するような小論『贖宥と恩恵とについての説教』を刊行した。「95ヵ条の論題」と大きく違うのは、これがドイツ語で書かれたということである。このことはこの『説教』が、「論題」のように学者向けのものではなく、一般庶民向けに書かれたことを意味している。『説教』は20ヵ条に絞られていて、表現はより鮮明で過激になっていた。この中でルターは、相手方を「聖書の匂いをかいだこともない(中略)鈍い頭脳の持ち主」と攻撃した。この『説教』は20種類以上の版が作られたことがわかっている。
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