武田秀山とは? わかりやすく解説

武田秀山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 02:58 UTC 版)

武田秀山

武田 秀山(たけだ ひでのぶ、嘉永6年12月30日1854年1月28日[1] - 明治35年(1902年12月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。体操練習所(のちの日本体育大学)所長。香宗我部氏(中山田氏)の子孫。

履歴

嘉永6年(1853年)、高知城下南与力町(現在の高知市)に生まれる。明治3年(1870年)、土佐藩兵伍長で御親兵に選ばれ、陸軍中尉に任官。

第1師団参謀などを経て、1893年(明治26年)2月、歩兵第21連隊長に就任。日清戦争には混成第9旅団長・大島義昌陸軍少将の隷下として出兵。成歓の戦い平壌の戦いなどに従軍した。1894年(明治27年)11月、歩兵大佐に昇進し、1895年(明治28年)1月、第1軍付となり終戦を迎えた。同年8月、再び歩兵第21連隊長に就任。

1895年12月、第1師団参謀長となり、1898年(明治31年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第2旅団長に就任。1902年(明治35年)3月、台湾総督府陸軍幕僚参謀長として赴任したが、リウマチマラリア・肺病を併発し[1]、同年12月に須磨で死去した。先祖の香宗我部秀通を慕っていたため、秀通の墓に隣接して葬られた。墓標を松の木にしたのも、秀通の墓に倣ったもので、山縣有朋が寄贈した。しかし1971年昭和46年)に台風のため倒れ、石の墓標に建て替えられた。

親族

栄典

位階
勲章
受章年 略綬 勲章名 備考
1889年(明治22年)5月13日 勲六等瑞宝章[1][5]
1894年(明治27年)11月24日 勲五等瑞宝章[6]
1895年(明治28年)10月18日 勲四等瑞宝章[7]
1895年(明治28年)10月18日 功四級金鵄勲章[7]
1901年(明治34年)5月31日 勲三等瑞宝章[8][1]

脚注

  1. ^ a b c d 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.668-669
  2. ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
  3. ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
  4. ^ 『官報』第5845号「叙任及辞令」1902年12月25日。
  5. ^ 『官報』第1775号「叙任及辞令」1889年6月1日。
  6. ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
  7. ^ a b 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
  8. ^ 『官報』第5374号「叙任及辞令」1901年6月4日。

参考文献

  • 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク

軍職
先代
友田美喬
一戸兵衛
歩兵第21連隊
第2代:1893年2月13日 - 1895年1月10日
第4代:1895年8月10日 - 1895年12月26日
次代
一戸兵衛
山中信儀
先代
内山小二郎(心得)
第1師団参謀長
第5代:1895年12月31日 - 1898年3月3日
次代
伊地知季清
先代
塩屋方圀
歩兵第2旅団長
第?代:1898年3月3日 - 1902年3月10日
次代
中村覚
先代
中村覚
台湾総督府陸軍幕僚参謀長
第4代:1902年3月10日 - 1902年12月24日
次代
谷田文衛




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