成歓の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 09:11 UTC 版)
成歓の戦い | |
---|---|
![]() 「大日本帝國萬々歳 成歡襲撃和軍大捷之図」 水野年方画 | |
戦争:日清戦争 | |
年月日:1894年7月28日 - 7月29日 | |
場所:朝鮮半島忠清道成歓付近 | |
結果:大日本帝国陸軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
![]() |
![]() |
指導者・指揮官 | |
![]() |
![]() |
戦力 | |
約4,000人 | 約3,880人(北洋軍閥) |
損害 | |
死者34人、負傷者54人 | 死傷者約500人 |


成歓の戦い(せいかんのたたかい、ソンファンのたたかい)は、日清戦争の最初の主要な陸戦である。成歓・牙山の戦いとも呼ばれる。
概要
1894年6月8日に、葉志超総督、聶士成山西太原鎮総兵に率いられた清国軍(北洋陸軍、歩兵約2,500名、山砲8門)が牙山に上陸した[1]。7月24日時点で3880名に達する[2]。
7月23日午前2時、日本軍の混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かった。「〔民間〕人ヲシテ」電信線を切断し、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し、占領した。日本は国王高宗を支配下に置き、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた。25日、朝鮮の新政府は清国の宗主権破棄を宣言、大鳥圭介公使に対して牙山の清国軍撃退を要請した。7月26日に混成第9旅団(旅団長大島義昌少将)にその旨が伝達される。
7月28日に日本軍は牙城に篭る清国兵を攻撃するため出発[注釈 1]。7月29日午前3時20分、佳龍里において清国兵の攻撃により歩兵第21連隊第12中隊長・松崎直臣歩兵大尉が戦死する(日本側初の戦死者)。[3]他数名が死傷した(安城の渡しの戦い)[4]。午前8時30分に日本混成第9旅団は成歓の敵陣地を制圧する[4]。
大島旅団長は清国軍の主力が牙山にあるとし、7月29日午前に全旅団に牙山へ向け出発を命じた。午後3時頃、牙山に到達したが、清国軍は敗走していた[5]。
この作戦の日本側の死傷者は88名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。
なお、安城の渡しの戦いで歩兵第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。
注釈
- ^ 25日龍山兵営発果川泊、26日水源泊、27日振威泊、28日素沙場泊。大島旅団長は素沙場で清国兵が成歓東方に陣地を構築し籠っているのを初めて知る。「明治二十七八年日清戦史」(参謀本部1904)
脚注
参考文献
- 原田敬一『日清戦争』戦争の日本史19、吉川弘文館、2008年。
- 檜山幸夫『日清戦争 - 秘蔵写真が明かす真実 』講談社、1997年。
外部リンク
成歓の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)
詳細は「成歓の戦い」を参照 7月24日、豊島沖海戦の直前、清の増援部隊1,300人が上陸し、葉志超提督(中将に相当)率いる牙山県と全州の清軍は、3,880人の規模になっていた。混成第九旅団長大島義昌陸軍少将は、南北から挟撃される前に「韓廷〔朝鮮政府〕より依頼の有無に関せず、まず牙山の清兵を掃討し、迅速帰還し北方の清兵に備ふる」〔カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた〕ため、25日から26日にかけ、漢城郊外の龍山から攻撃部隊を南進させた(兵力:歩兵15箇中隊3,000人、騎兵47騎、山砲8門。なお従軍記者14社14人)。 日本軍の南下を知った清軍は、退路のない牙山での戦闘を避け、そこから東北東18kmの成歓駅周辺に、聶士成率いる主力部隊を配置した(5営2,500人・野砲6門)。さらに、その南の公州に葉提督が1営500人と待機した。29日深夜、日本軍は、左右に分かれ、成歓の清軍に夜襲をかけた。午前3時、右翼隊の前衛が待ち伏せていた偵察中の清軍数十人に攻撃され、松崎直臣陸軍大尉ほかが戦死した(松崎大尉は日本軍初の戦死者)。不案内の上、道が悪い土地での雨中の夜間行軍は、水田に落ちるなど難しく、各部隊が予定地点に着いたのは、午前5時過ぎであった。午前8時台、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧した。さらに午後3時頃、牙山に到達したものの、清軍はいなかった。死傷者は、日本軍88人(うち戦死・戦傷死39人)、清軍500人前後。旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、大鳥圭介公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた。成歓・牙山から後退した清軍はおよそ1カ月をかけて移動し、平壌の友軍への合流を果たした。 なお、混成第九旅団は、派兵が急がれたため、民間人の軍夫(日本人のみ)を帯同することも、運搬用の徒歩車両(一輪車・大八車)を装備することもなく、補給に大きな問題があった。このため、牙山への行軍では、日本人居留民のほか、現地徴発の朝鮮人人夫2,000人と駄馬700頭で物資を運搬するはずであった。しかし、なじみのない洋式の外国軍に徴発された人夫(馬)の逃亡が少なくなく、とくに歩兵第21連隊第三大隊は「みな逃亡して、ついに翌日の出発に支障を生じ」たため、7月27日早朝、同大隊長古志正綱陸軍少佐が引責自刃した。
※この「成歓の戦い」の解説は、「日清戦争」の解説の一部です。
「成歓の戦い」を含む「日清戦争」の記事については、「日清戦争」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 成歓の戦いのページへのリンク